回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
みんな、死ぬのは怖い
やまとさんはじめまして。
死が怖い、確かに。
私も怖いよ^^
私は今月50歳になります、年々、身体は確実に衰えていますし、自分の父と祖父はどちらも50代前半で亡くなっているので、自分も心のどこかで死が近いのかなと、ぼんやり考えております。
死に意味はありません。
生も死も自然現象ですから。
様々なご縁の繋がりによって命が生まれるし、ご縁の繋がりが切れたらその生は滅びます。
それを因縁説といいます。
全ての物事は常に変化し続けています、これを仏教では「諸行無常」と説きます。
生や死に意味を見出そうとするのは人間の悲しい性ですね。
死は回避できないし、なかなか自分の思い通りにはできません、
なのに、どうにかしたいと執着するほどに、苦しくなってしまうのです。
私は思います。
死は苦しいことではあるけれど、決して不幸なことではない。
幸か不幸かは、今この瞬間をどう生きるかで変わってくるし、何か意味らしきものが見いだせれば、これほど幸福なことはないと思います。
人生は常に死と隣り合わせ、なにごともなく天寿を全うできれば万々歳ですが、それもまた難しいですよね。
結局は、今ある命を精一杯生きるのみ、なんですよね。
悲観することはないよ。
考えてもどうにもならないことは「えいっ」と放り投げちゃえばいいんだ。
人生を楽しめ(・∀・)
「不死の境地」
やまと様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「死」に関して、仏教では、よく「不死の境地」というようなことで悟りを表わすことがございます。
同じく「不生」とも。
般若心経に出て参ります「不生不滅」もそうです。
全ては、縁起し空である。
確かに、生も死もあります。ありますが、それは林浩道様もおっしゃられておりますように、縁起として、つまり、因縁(原因と条件)によって成り立っているものとなります。
しかし、そのものをそのたらしめている何か独立自存としての実体的なものはあるのかと申しましたら、そのようなものは無いとして「空」と申すことになります。
生も死も、自分というものも実体としてあり得ているものではないけれども縁起としてはあり得ているものということになります。
まあ、難しいことですので、今はあまり深くは考えなくても。。
とにかく、「死」により、全てが「無」になるわけではないとお考え下さいましたら。
肉体は、あたかも衣服のようなもの、死は、今の衣服を捨てて、また、次に心・意識が宿る衣服に新しく交換するようなものであります。
問題は、存続していく心・意識のありようが大切となって参ります。
仏教により、善き心・意識を清らかに調えて、行い・業をより善きものに調えることで、善き赴きへと向かって参りたいものとなります。
幾ら新しい衣服に着替えても、その中身が変わっていなければ、また迷い苦しみの中に存在し続けてしまうというところであります。
川口英俊 合掌