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お坊さんに礼儀作法の研修を受けたい

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お坊さんって礼儀作法がしっかりしていますし、ちょっとした動作ひとつでも整っているというか。こんなことをいうのは失礼かもしれませんが、大変上品なしぐさをしますよね。例えば法事などで一緒に食事をするときのテーブルマナーにおいても。

礼儀作法はその人の育ちがわかるというくらい重要なもので、私もお坊さんのような礼儀作法を学びたいです。

そもそもお坊さんはどこで礼儀作法とかテーブルマナーとかを学ぶのでしょうか? また、そうした講習があるのであれば是非受けたいと思っています。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こう言っては元も子もありませんが、お坊さんは礼儀作法の専門家ではありません。私自身も、特にマナー講習を受けた経験はありません。
むしろマナー講座の受講経験という点では、社会人経験のある方のほうが機会は多いと耳にします。

ではなぜ、COMPLEXさんのおっしゃるようにお坊さんが礼儀作法がしっかりしていると感じるのでしょうか。
おそらくそれは、一つ一つの所作を丁寧に行なっているからだと思います。

「マナーのためにこれを行う」という考えでは、人が見ていないときや、人と一緒ではないときには美し所作をする意味がなくなってしまいます。また、「こういうルールだからこういった動きをする」という考えでは、どうしても長続きしないでしょう。
それよりも、「一つ一つ、目の前の行為を丁寧に行なってみる。それは、自分自身の生き方を見直すためである」ことを頭において行動してみることで、少なくとも私の場合は落ち着いた所作が身につき、長続きしていると感じています。

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有り難し
おきもち

1977年東京生まれ。浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。日本初・ お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」代表。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」創設メンバー。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。

相手の六感覚に、涼やかさを演出。

人間には六官、六つの感覚器官があります。
般若心経にもある眼・耳・鼻・舌・身・意です。
相手と接する時、この六感覚に不快感を与えないようにする、事が法にかなった在り方、作法です。
不快感のないこと、法にかなったこと=如法(にょほう)=誰もが納得する理想的状態を「あるべきよう」という言葉で覚えてください。
そのあるべきよう、とは「法」と覚えてください。
その法(あるべきよう)を、作る、作す(なす)ことが、即ち作法であると私は思っています。
さらにいえば、作法とはそこに「わたくし」がないことが肝要です。私的な計らいや作りっぽさは法にかないません。

日常の中で、さりげなく、以下をあなたのパートナーとの間で実践しあってみてください。

目には、身だしなみ、清潔感、笑顔。
耳には、物音しずかに、優しい声色でお話を。
鼻には、新鮮、クリアなエアー。
口には、美味しいフードやドリンク、時には相手の口から出るお話を聞いてさしあげること。
体には、配慮、気遣い、緊張をほぐしてリラックス。
心には、まごころ、誠意、安心、やすらぎ、そして何より❝真実❞です。

一度、この「六感を満たす」という根本を押さえておけば、ととのえやすいと思います。(^∇^)
ただし、カタチだけではダメです。
カッコ良く見せようとか、アピールであってはいけません。
はからいのない「わたくしのない」姿勢こそが最上の「あるべきよう」です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ひたすらに繰り返すことにより見えてくる

他の方も答えておられるように、僧侶はマナーの専門家ではありません。ドアの開け閉めやナイフとフォークの使い方などは本来、日本の仏教には無いものですから。ただ、僧侶のしぐさや作法が美しいとされるのは、長い歴史の中で、気が遠くなるくらい何度も何度も繰り返し行われたことによって無駄なものがそぎ落とされているからだと思います。法要の中での所作や、真言宗のさまざまな供養法などを修しているときにつくづくそう感じます。俗に「流れるように…」というのは、それぞれの動きが繋がり、角が取れた、文字でいうと草書体のようなものなのだろうな、と思います。

ですので、自分自身で何かを極めたければ、その事を呆れるくらいに繰り返すことではないでしょうか。なかなかそのような時間が無いと思われるのでしたら、同行の仲間を募ったり、他人から意見を伺ったりするといいと思います。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

質問者からのお礼

「一つ一つ、目の前の行為を丁寧に行なってみる。それは、自分自身の生き方を見直すためである」

これはとても素晴らしいご回答だと思います。こうした心がけや気持ちが大事なんだなと実感しました。

自分自身の生き方を見直すというのは勇気のいることだと思いますが、作法だけでなく、言動、立ち振る舞いや行為を丁寧ということを心がけてみようと思います。

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