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父親の死

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有り難し有り難し 9

父親が亡くなりました
お正月に実家に帰省したときは元気そうでこれから老後の人生を楽しむものと思っていました

しかし先日突然倒れてしまい、回復することもなくいってしまいました
自分が就職してからもほとんど何も親孝行する暇もなくいってしまったのでとても後悔しています

しかし葬儀が終わっても涙も流れず、なんとなく死んでしまったのかという感覚だけが自分にあります
泣くことも出来ない今の自分に嫌気がさしています
肉親の死にこれほど感情の動かない自分は自分で考える以上に冷徹な人間なのだと思ってしまいます


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

結果よりも関係性・関りに目を向ける

人間は本当は自分のことしか考えられんのかもしれません。深い意味で。
ならばこそ、その今の自分を存在たらしめたことを今から考えてみましょう。
あなたがそういう考え方になっていったのは?
あなたが今の体があるのは?
あなたが今息をしているのか?
あなたがsこの家に存在しているのは?
あなたがあなたのお母さんを縁としてこの世に誕生してきたのは?
あなたのお母さんがお父さんとであったのは?
今の一呼吸という結果よりも、それを存在たらしめているこの世の縁、かかわり、由来、由縁…

たとえば「ありがとう」という言葉一つにしても、阿知賀等と言いなさいと言われていうような「ありがとう」はうそなのでしょう。
そこに到るにかかわっている存在の暖かさややさしさや助け、支えを感じ取ることが無ければ、お店の心ないバイトさんの「ありやっとゃしたぁ」と変わらんです。
車が走るにも何かが要ります。
それを形成してくれているのは何か。誰か。過去にどんなことがあったか。
我々こそ供養されている。布施されている。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます
今の自分がなぜこう考えているのか、父の思い出と共に考えてみます

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