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あるお坊さんのサイトを見て

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あるお坊さんのサイトを見た時、こんなこんな考えがあるのかと思った事があります。

「ヘビに食べれそうになっていた猫を助けた人が称賛されている。食べ物を奪われたヘビの気持ちはどうなのか、人間が他の生き物の生き死にを決めていいのか」

この考えを見て、猫を助けるべきだったのかそうでないのか、答えは無いと思いますがお坊さんの考えを聞きたいと思って質問させて頂きました。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ヘビの気持ちはヘビにしか分かりません。猫もそのうち死にます。

おはようございます。

猫の生き死にを決めたのではなく、猫の命を救ったのことに賞賛されているのではないでしょうか。
たまたま救われても猫はそのうち死にます。

ヘビの気持ちはどうなるのか?
この問いは誰に向けて発しているのでしょう?
自分自身でしょうか、あるいは自分以外の誰かでしょうか?

他人に向けてのものであれば、僕はそんな聞き方しません。
ヘビの気持ちはヘビにしかわかりません。
察するにヘビはその気持ちを引きずっていても獲物は返ってこないので、
本能として次の獲物を探すでしょう。

自分に対しての問いなら、
私なら、ヘビに何がしてあげられるのか、ヘビへのフォローをどうしよう?になります。

余談ですが、
ヘビじゃなくてタカの話ならインドの仏教昔話で聞いたことあります。
タカの餌になった生き物を救って私の身を差し出す。
それを美談のように書かれていた気がします。
でもそれなら単なる食物連鎖の域を超えません。

輪廻すると伝えたい立場のお坊さんもいますが、
私は輪廻から抜け出すことを伝えたい立場です。

猫を助けるべきだったのかそうではないか。

答えが無いのではなく、ひとつに決められない。
それは自分の状況がその時々で変わるからです。

なので、私の考えとしては、その時の気分で変わる。
助ける時も助けないときもある。
助けようが助けなかろうが生き物はやがて死ぬ。
なので生き死にをコントロールしているとは言えないなという考えです。

どうせ死ぬのだから、の先のどんな行動を取れるのか。
死に方がどうであろうとも、その生あったものの尊さを見いだせるか。
相手の大事にしていたことを汲むことができるか。
葬儀を司る身としてはその点を大切にしています。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

仏教と道徳の違い

もし猫が助かったなら猫には生きるご縁(えん)があり、
蛇には餌を奪われるというご縁があったと言えます。
また猫が食べられたなら猫には死というご縁があり、
蛇には餌に恵まれるというご縁があったと言えます。
「縁(えん)」とは条件と考えててもよいかも知れません。
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縁ということを考えて世の中を正しく見て生きましょう、というのが仏教です。
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食べられそうな猫を助けましょう。
お腹がすいた蛇に餌を与えましょう。
どちらも道徳です。
あなたが今疑問に感じたように、道徳と道徳がぶつかったとき、道徳では解決できないことが世の中にはたくさんあります。なので仏教が必要になってきます。
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そもそも人間は不完全な生き物なので、行いも考えも不完全になってしまいます。
道徳とは不完全な人間の「不完全な考え」のことを言います。
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一方、仏様は完全ですから分からないことがあったり迷うことがあれば仏様にお聞きすれば間違うことがありません。
どんなに偉いお坊さんも人間ですから不完全な考えしかできません。
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なので、お坊さんは個人的な間違った考えでみなさんを間違った方向に向かわせないように、
自分の考えを全部捨てて、仏様の教えはこうだよ、お経の中にはこう書いてあるよ、と言うので決して間違ったことは言わないのです。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

もし自分が蛇にかまれたら

もしあなたが蛇にかまれたら、あなたはその蛇をどうしますか。そのままにしておくなんてことはないでしょう。どうにか自分から離す事を考えるのでしょう。時には殺してしまうこともあるかもしれません。
その時その時の状況によって、判断はかわるのではないですか。
そこにどんな決断が善で悪なのかなんて存在していないでしょう。その時の事実が事実としてあるのみです。
生きるためにいのちをいただくことは私たちも日ごろ行っています。牛や豚などのお肉も直接殺さないまでも、いただいているわけです。そこに罪などないでしょう。無駄にしなければいいだけです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

見た目より 本質。

瞬時瞬時、自分の思った通りのことを選択して生きているのが人間。
猫やウサギがムカデやゴキブリの形をしていたら❝かわいらしい❞と思わない見た目すべて、都合全てのド偏見のカタマリなのが人間。
フェイスブックで毎日猫のアップしている人はいても、毎日ゴギブリのアップをしないのが人間。
クジラやイルカは可哀想だが、サメなら殺してもいいと思うのも人間。
アンパンマンは正義だが、バイキンマンやバイキンマンの家族は悪者と考えるのも人間。
クモとチョウチョ、ネコと蛇も同じこと。
真実の探求をすればそれは平等な命であると分かる。
とっさにどちらかを助ける行動をしたとします。
その選択が良いか悪いかは後で決める事。
その選択が良いか悪いかにこだわるのが人間。
そこに良いも悪いもないという「所」を見極めるのが仏の目。
それを知った上で、状況に応じて人の心をしてよき方向へ導けるのが人間菩薩。
あなたは、この事をもう少し学んで、物事の本質を知ると良いでしょう。
そして、およそ大半の人間が見た目の良さ、デキる人ばかりを重宝しますが、そうでない所にこそもっと素晴らしい輝きがある事を見出してください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

重複しました。すいません。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

質問に答えていただいてありがとうございました。
自分にもこのような事があったら、どちらかに被害、利益が出てもそのご縁があったと区切りを付けようと思いました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ