【曹洞宗】嗣法について
諸師家様方お疲れ様です。
さて、未だに安居も法戦もままなりませんが、愚禿はこの度漸く伝法(嗣法)、瑞世までの道程を考えて歩ける程度に法灯を賜りました。
そこでこの度安居に入る前に、一つ諸師家様方に「本師としての嗣法のリスク」をお伺いしたくございます。
と言いますのも、可能であらばどうしても嗣法をお願いしたい師がおり、僧堂に往く前にダメ元でも、送安後に、嗣法して欲しいと頼みたいのです。
ですが、背景として「結制していなければならない」だとか「多額に負担がある」だとか「住職後任として世話しなければならない・檀家に公表せねばならない」だとか易々とは行かぬこともあるのではと思ってしまうのです。
私はその師の寺の副住職になって養子になりたいだとかそんな気持ちは無いのです。只、その師を本師と仰げれば何よりであると思う迄であります。
もちろん、嗣法頂ければ、次代の方丈(例えば血縁の婿)が来た際、粉骨砕身して作務を檀務を支えるつもりであります。
そんな気持ちで嗣法賜ることを願い出てもよろしいのか、師家様方にお伺い致します。
どうぞ宜しゅう。合掌九拝。
一般家庭に生まれ、10代の終わりに曹洞宗にて出家。 一般職と納僧職を兼業する繰り返しを経て、現在は関東の田舎にある檀家100件足らずの小さなお寺に身を置き、副住職まがいのことをしております。 とは雖も、法要随喜や派遣法務のほか、托鉢や坐禅会の指導、各地の師家への拝登などで各地を転々としており、年間の殆どを寄る辺のない立場で過ごしております。 現在は特に澤木興道老師、内山興正老師らの提唱する禅を軸にしております。
煩悩とは「煩わしい悩み」と書きます。 足ることを知り、心身脱落することこそが、煩しい悩みを手放す特効薬ではないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
参学の後に
ご質問、拝読させていただきました。
結論を先に申し上げます。今の段階で嗣法をお願いするのは、時期尚早かと思います。
既にご回答されている榊原師の御回答は、他宗の方であるがゆえに用語使用に若干ずれがありますが、極めて妥当な見解だと思います。現在の曹洞宗では、狭義の意味で「弟子になる」とは得度・立職・伝法の時の師匠の弟子となることです。
あなたが現在「嗣法をお願いしたい」と願っている方丈様がどんな方か存じませんが、どの程度その方丈様を存じ上げておられるのでしょうか?また、その方丈様はどの程度あなたのことを御存じなのでしょうか?
実際のところ、親子である師匠と弟子の場合、良きにつけ悪しきにつけ、長年寝食を共にする中で、お互いを理解し信頼関係を構築してきております。「弟子入りを願い出て、その後嗣法どうこうは師匠が考えることです。」という榊原師の見解は正しいと思います。今の段階で「僧堂安居を終えたら、嗣法をお願いする」というのは勘違いも甚だしい。あなた自身は志を抱き真剣に仏道を歩もうとしているつもりかもしれませんが、まだまだ学びも修行も初歩的な域を出ていないかと思います。其の方丈様だって、僧堂にも行っていない者が今後どんな修行をし、どんな僧侶になるかわかりません。わからないのに、「僧堂送行後に嗣法させて欲しい。」と頼まれても引き受けようが無いと思います。
先ほど、狭義の意味でと申しましたが、もっと広い意味での師匠と弟子の関係に「参学師と弟子」の関係があります。教えを乞いに其の方丈様の下に参じ、学んで行くことです。高校中退でも大学を出なくても、志があれば仏教を学び禅を学ぶことが出来ます。「何もわからないから、教えて欲しい。」と言って教えを乞うような愚かな真似はしないと思いますが、参学するためには「参学するための学びと修行」が大事です。あなた自身が学び修行した中でより深く知りたいと思ったことをその方丈様の下に参じて教えを乞う。そういう参学を積み重ねる中で、「本師となっていただきたい。」という気持ちが固まるでしょう。そういう段階になってから、嗣法をお願いすべきだと思います。
追記
感謝の気持ちは、①今後も参師聞法を重ねる、②参学師に寿餅を贈る等で示すことでも良いと思います。僧堂安居して立職する中で色々な御縁も出来ます。立職の時点で結論を出せばよいでしょう。
こんにちは。
たくさんお勉強をなさっているようですので、お釈迦さまから迦葉へ、弘忍から慧能へ法が伝わった時の話をご存じでしょう。
願い出ることは自由ですが、嗣法はあなたが決めることではなく、師が決めることです。
また特にその方の法を嗣がなくても、根っこはおなじお釈迦さまです。参学の師として師事するという形でも良いと思います。私も法は師匠の法を嗣いでいますが、さまざまな師の下で参究させていただいています。
どうしてもこの方にと思っているなら慧可のような覚悟がいるでしょう。
質問者からのお礼
御説明が足らずに恐縮でございます。
背景を説明させて頂きますと、今現在、私自身は得度しており、その方丈様のお寺並び幾つかの山内にて借衣や黒衣にて納僧を勤めさせて頂いております。
とりわけ、今回嗣法を願い出たい方丈様には、数年来様々なご指導ご鞭撻並び様々な世話を頂いており、送行後もその方丈様の元でお勤めさせていただますので、もし、願い出ることだけでも出来れば、と思い至った次第にございます。
これは身の回りで、得度・立職・伝法の師が異なる方が多い影響で思い至ったのかも知れません。(単立や師匠の結制の有無など様々な理由で法戦と嗣法は師寮寺以外でされてる方が多く、私自身も出来ることなら僧堂で首座になり立職するよう言われております。)
しかしそのような事情も無い中でその方丈様に嗣法を願い出るとなれば、御血脈御法縁賜った師匠への御恩と礼というものも御座いますし、さりとて書類上はともかく手巾の結び方、殿鐘、維那、堂行などの進退から宗務庁との渉外、生活に困窮した時の御助力までして私を一端の宗侶にしようと育てて下さっているその方丈様への御恩というものもただならぬものでは御座いません。このままで居てもいずれは師寮寺で嗣法を賜りますが、せめて掛塔前に、今、一見の比丘の様に振る舞えるまでにこの身を育てて下さった方丈様に、そのお気持ちだけでもお伝えしたく思うのです。
得度して間もない頃は、それこそ俊英師の仰る様な「何もわからないから、教えて欲しい。」を地で行く愚か者でございました。その頃に立てば今や何と贅沢な悩みをほざいているのかと思いますが、今この考えに至るまでに導いて下さったのは、その方丈様に違いないのです。
正に「思いの丈を記す」ように同じことを繰り返してしまいましたが、私は今、掛塔を前にして、黙って本山に行ってしまって良いものなのか、こればかりが回廊の木肌のがささくれの様に私を抉るのでございます。
師家様方、御指南賜り有り難き限りにございます。
仰る通り先ずは立職までよく自己をならい、自己を忘るることに邁進し、仏門は血脈皆一如の僧伽であることを忘れずに僧堂での日々を過ごし、立職までは(或いはその先も)何処で嗣法をするのかは師寮寺なりお勤め先の師家の皆様にご縁をお預けすることと致します。
その方丈様には次の正月に寿餅をお贈りし、残暇にあってはよく山内の作務に参じてこれからも参学し出来る限りの礼を尽くして参ります。
その方丈様には作務も檀務も尽せば尽くすほど、それに見合わない程に盛大な見返りを頂いてしまい尚尽くしきれませんが、それが今の正解であるのならその様に致します。
近頃は、法務にあっても差定と所謂「美しい進退」にばかり拘ってしまい、ものの本質を見ることに疎かになっていたかも知れません。法式坊主の道を歩んでおりました。
今一度強く手巾を結び直し、襟を正される思いです。
もしここで立職までの道程と心境をご報告することが出来るならばなりより幸甚にございますので、ご報告の頃までここに言葉を残せるかは分かりませんし、何より立職の時は僧堂におりますからそもそもネットにアクセス出来るかは分かりませんが、敢えてこの問は回答受付中のままとさせて頂きます。
御回答頂きました師家の皆様には御礼に余りある大恩にございます。
もし施餓鬼等なにかお手伝いさせて頂くようなご縁がありましたら、その折には佳く献香をさせていただきますので、その際にはどうぞ宜しゅう。
合掌九拝。