無我とはどういうものなのでしょうか
短気な性格を直したくて読んだ自己啓発本に書いてあった無我(人や物事に対する興味、自分自身の気持ちを無くせばイラつくことも無くなるということらしいです)というものを数年前から自分なりに頑張って実践していたのですが、効果が出てくる頃には人と会話が続かないようになってしまいました。
会話している相手や話している内容(流行などにもかなり疎いせい)に全く興味がわかないので向こうが話かけてくれても一言二言生返事で返してしまいすぐに途切れてしまいます。
頑張って繋げようにも面接というか質疑応答のように無機質な感じになってしまい、華が咲かずただ無意味な問答で相手を困惑させているような気がします。
自分自身、気まずいという感覚が麻痺してきているのか感情という面で困ることは無いのですが、やはり不和の原因となっている部分もあるのでこのまま社会に出るのは危ない気もします。
元から私的な場面では人とあまり関わりたくない性分ですのでパブリックな部分は徹底してドライに割り切りたいのですが、感情的な人には斜に構えた嫌味な奴に思われてしまうのかも知れません。
「嫌われようがどうでもいい」という今までのスタンスを崩し、多少無理にでも嫌われない様にと努めるとまた昔のように小さいことでイライラする自分が垣間見えるのでどうすればいいかわかりません。
本家本元である仏教での無我というものはどういう教えなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【我】が破れた状態
【無我】とは、
オレが、オレが、という【我】が破れた状態をいいます。
体を痛めつけた末、思考停止になってボケェ〜となったりうっとりと恍惚感に浸ったりする事とは全く違うのでご注意ください。
質問文を読みますと、無我を手に入れようといろいろな作戦でかなりご尽力なされたのがうかがえます。しかし、やはりあなたの考えや計算、評価などが【自我】(エゴ)としてどうしても混じってしまっているようなのです。これを【我執】といいます。
わたしたち仏教者は、この【我執】を手放す為に【慈悲喜捨】を実践します。
あらゆるものは名を与えただけのものにすぎない.
我々が「ある」と思っている物事は,実は我々が名前を与えたものに過ぎないのです.しかし,それらが「ある」のは事実です.ただ,それらが我々の認識を離れて,それ自身に基づいて,独立的に存在しているわけではないのです.
例えば,「私」を思い浮かべてみましょう.「私」というものは確かにあります.ただ,「私」と呼ぶとき,何を私と呼んでいるのでしょうか.「私」と名前を付けるとき,その名付ける対象が他のものに依存せず存在しているのでしょうか.
人は数えきれないほどの細胞でできています.その一つ一つが私なのでしょうか.もしそうならば,数えきれないほどの「私」が一人の「私」の中に存在することになります.では,そうした細胞一つ一つとは離れた全体が「私」なのでしょうか.もしそうならば,それぞれ一つ一つの細胞は「私」ではないことになってしまします.したがって,細胞一つ一つが「私」でもなければ,それらを離れた全体が「私」でもないのです.
このように分析して考えると,「私」という実体はどこにも見つけられません.でも,「私」は確かに存在します.その「私」とは何かというと,我々が名前を付けて呼んでいるに過ぎないものなのです.決して,認識と離れて独立的に存在する「私」という存在があるのではありません.
人であれ物であれ,認識とは離れて,それ自身に基づいて成立しているものではありません.しかし,我々は,それらが独立的に存在していると思い込むのです.その思い込んでいる独立的な存在が「我」と呼ばれるものです.そして,今見てきたように,そのような「我」は存在しません.「無我」なのです.言い換えるならば,「空」なのです.
また,独立的に存在しているという思い込みは,我執と呼ばれ,我々を輪廻に引き止める最大の要因です.仏教ではそのような思い込みは捨てて,輪廻から解脱しよう,と考えます.
無我はなるものではない。元々が無我だと悟ればよい。
我・有我というのは人間のエゴエゴしたもの・自分自分した精神です。
いま世界はエゴの博覧会。どこもかしこもオレがオレがの我の嵐。
戦争・犯罪・非道・悪行はみなこの「自分を中心としたものの見方」である「我」が原因です。
「我」を肯定する国家をご覧ください。
他国のことなどお構いなし。
こどものように「これ俺取っぴー」「オレが最初にみつけたー」「オレのモーン」みたくイイ大人になっても本当にそれをやっていますから、世界中がドン引きです。
だからこそ、仏教ではその「我」「エゴ」を餓鬼心なとして、飼いならすことを勧めています。
カッとなれば先輩の警察官を拳銃で撃ち殺してしまうのも我のなせるわざです。
子どもに細菌兵器を用いることも我の恐ろしさ。
公的文書の改ざんもみな我のなせるわざです。
人間には誰にでも我が生ずる可能性があるからこそ、無我を求める必要があります。
では、無我になるにはどうすればよいか。
カンタンに言えば坐禅して能動的な意識を一切撃ち止めにすることです。
パソコンのマウスやカーソル、ポインターを触らなければ画面も休止画面になります。
緑茶も濁り酒も放っておけば濁りが底に沈みます。
心の中に暴れまわる我の暴走をおさめるには一念をおさめればよいのです。
我の立ち上がりはみなすべて一念。
テレビのニュースで痛ましい事件のニュースをきくと、大半の方が思いを起こします。その一念に注目するのです。その初めの一念は別に問題はありません。これは我ではなく自然な「反応」です。
ただし、その後の歩みの進め先によってはこの一念が「我」になるのです。
一念の出始めは純粋無垢。無我なるものです。
ところが、そこからその一念に対して無数の関連動画が現れて、社会的にも家庭的にも人間関係的にも良からぬ自分中心的な言動に向かうようになる。
それが「我」といわれる具体的な現れになるのです。
賢者はここを知り、ここの時点で鎮火します。
我をおさめるのです。
無我とは、私がやっていないこと。
見るのは自分がやること。見えるのは無我。
聞くのは自分がやること。聞こえるのは無我。
思いを展開して思索を深めるんは自分のやること。思われてくることは無我。自分がやっていることではありません。
自分の中で自分がやっていない働きに注目してみてください。「わたくし」以前の世界が見えてくることでしょう。
「空」と「縁起」
海苔様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「無我」とは、願誉浄史様もおっしゃられておられますように、「実体が無い」ということで、「空」とも同意となります。
私たち凡夫においては、認識するモノ・コトの現れにおいて、まるであたかも、それらが、そのもの自体の側で、独立自存として、実体的に成り立ってあるかのように現れて執着することとなってしまうのですが、しかし、そのものをそのものたらしめているような実体的なものを厳密にいくら探そうとしても、全く見つけることができないということで、「無我」となるのであります。
もちろん、「無我」と言っても、何も無いといわけではなくて、モノ・コトは、「縁起」として成り立っていると申すこととなります。
「縁起」とは、他に依って、他に依存することによって成り立っているとして、何も他に依存することなしに成り立っているものは無いということにもなります。
簡単には、原因や条件に依って成り立っているということから、全体は部分に依って成り立っている、あるいは、全ては、分別に依って成り立っている、ということまで、幅広く「縁起」ということを説明することにより、理解を目指すところとなります。
少し難しいことですが、是非、これから「空」と「縁起」についても、更に仏教にて学び進めて理解を深めて頂けましたら有り難いことでございます。
とにかく、他に依って成り立っている以上は、他次第にも自分は依るところとなって参ります。
善き縁起により、善き自分をというところにもなります。
人間関係においても、できる限り他への配慮や気遣いを忘れずに、お互い様、お陰様という気持ちで過ごして参りたいところでございます。
川口英俊 合掌
頭で考えた概念は、夢幻みたいに実体がない。
難しいですね。
無我とは、実体がない、執着に値しないという意味ではないでしょうか。
じゃあ、何に実体がない?何は執着に値しない?
とりあえずは、「頭で考えた概念は無我(実体がない)」と理解してみてはどうでしょうか。
短気でイライラする場合、頭の中で考えた「期待」がまずあり、その期待が、頭で予想していたように実現しないと、イライラしてしまうのかも。
人生では、「当たり前」と思っていたことが、実は当たり前じゃないという場面がありますからね。
あと、イライラには怠けの煩悩も関係します。
つまりは、早く休憩したい、早く手をぬきたい、早く気をぬきたい、という「怠け」がイライラに結びつくのです。
たとえば、話の長いお年寄りに付き合うときにイライラするときは、自分自身の「怠けの煩悩」でイライラが誘発されている。
「これは怠けの煩悩だ」とイライラの正体を見破ると、不思議とイライラがおさまる可能性があります。
嫌われたくないというのも、もしかしたら、楽をしたい「怠けの煩悩」と関係があるかも。
怠けの反対は、精進です。
仏教で精進とは、がむしゃらに頑張ることではなく、冷静に集中力を持続し、落ち着いて、今やるべきことを今やる、という感じでしょうか。
あまり肩に力を入れず、自然体で、しかし、事態の変化に適切に反応し続ける。
難しいですね。
質問者からのお礼
沢山のご返答有難うございました。やはり無を考えるというのは難しいですね、ただ個人的に「我執」という言葉が琴線に触れたようで、魚の小骨が取れたような気分です。確かに自己を構成するのは自分一人ではなく、周りの縁も重要なファクターだということが抜けていました。
今までのような人生観程度の独り善がりな無ではなく、世界観に拠る公平な無を目指すよう、これからもより一層精進したいと思います。