何故死んではいけないのでしょうか
先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。
が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。
勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。
お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。
私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。
同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。
私は薄情なのでしょうか。
先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。
自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。
私は人を大切にできない人間なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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至高の回答を求めない
価値観として語るなら自死してはいけないのも自死していいのも1つの価値観です。
戦争が続けば、人殺しは名誉な社会になります。戦争続き過ぎて人々が疲れ果てると、人殺しは悪な社会になります。そしてのど元過ぎて熱さ忘れた頃にまた、「戦争で犠牲が出るのは当たり前じゃん。なにヌルいこと言ってんだ?」みたいなのが出てきて、やがて人殺しが名誉な時代に突入する。
価値観はグルグル、グルグル巡り続けて永遠に人の心を乱し続けるんです。
そうやってグルグル巡り続けることを、お釈迦さまは輪廻と呼んだ。
そしてお釈迦さまは右と左、上下のどれが正解か、ではなく、その右左上下というとらわれの螺旋そのものから抜け出してしまわないと救われないんだな、とお気付きになったんです。
じゃあそうした時に、理屈から抜け出した時に何が残るかというと、ただ生きようとする生命なんですよ。心臓は心臓で勝手に脈打っている。眼は眼で勝手に見ている。血は血で勝手に流れている。
どう考えればスッキリ癒されるか、ではなく、その自然の生命力に全てゆだねてしまった時、苦しみようがない、苦しむ余地がない生を目の当たりにするんです。
それはもう、実感するしか無いんですけどね。
あと、自死に関しては水際で止めることばかり論題に上がりますが、本当はそこに至るまでの道筋、それこそ個人としては情操の段階から、大衆としては社会のあり方の段階から取り組まないといけません。
癌が末期になってようやく病院行ってもお医者さんに出来ることは限られます。お坊さんもお葬式の時しか顔を合わせない人に出来ることは限られます。
話は飛びますがお葬式を数多見てきて、みんな同じに見えたのですか?それは流石に薄情です。やはり80、90まで生きられてゆっくりと息を引き取られた方と、突然死なさった方の影響は全然違います。子の自死をキッカケに家庭崩壊を起こす夫婦だってあるのですよ。
じゃあ何故あなたが皆同じようにいつか立ち直るように見えるか?それは本人が苦しんで、誰かが支えた所を全てスッ飛ばして結果だけ傍観しているからです。「コンビニのバイトってレジ打ちするだけの仕事だから簡単よね」と考えるのと同じです。
もっともそれは、あなたの人格や感受性が欠落しているのではなく、単に人との関わり方が表面的でしたねという話ですが。
追記
ほらね、答えを求めると死にたくなるんです
いのちというバトンを伝えていく
表題に書きましたが、我々のいのちは先祖から受け継ぎ、今此処にあります。そのいのちを(可能な限り)子孫に伝えていくことが生きていく上での大事な役目の一つだと思います。
10年以上前ですが、こども病院に入院している子供さんたちの手記が載せられている本を読んで感銘を受けました。
『電池が切れるまで』
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JRU5BX0/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
テレビドラマにもなり、テレビ朝日系で放送されました。
ドラマが放送されて間もないころ、寺の会報に下記のような誌上法話を書きました。
「6月24日の放送のドラマの最終回で、白血病に苦しむ薫という少女がドナーから提供された骨髄の移植手術を受けた後の次のようなセリフを先生役の財前直美さんに語っています。
「あたしね…わかったんだ…あたしの電池は、あたしだけのものじゃないって。」
このセリフは、自分の電池(命)が骨髄提供者のおかげで動いている。ドナーの方の力をいただいて、自分の命がある。という感謝の気持ちからのセリフだと思います。でも、このセリフはすべての人間に当てはまる言葉です。何故なら、すべての人間は「命のバトン」を受けて、この世に生を受け、生きているのです。私たちの電池(命)は、親から先祖から「命のバトン」を受けて、今ここに動いているのです。自分だけのものではないのです。そして、ほかの人達の命もそうなんです。「命のバトン」をつないで、つないで、生まれてきたのです。生きているのです。だから、大切にしましょう。自分の命を、そして他人の命を。
https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/folder/42385.html?m=lc&p=22
この本の中に掲載されていた、小学校4年生の宮越由貴奈さんが書いた「命」という詩も誌上法話の中で紹介させていただきました。どうぞ、この詩も味わってみてください。
あなたが目覚めるべきは死ではなく、その人の死後の自らの生。
仏教は生きている内に死んでも大丈夫で死ななくても大丈夫な生き方を生きながらに見出す教えです。
あなたが求めた方がいいのはそこでしょう。自分の答えにあまりしがみつかずに重たいモンは手放してもっと明るい方へ身軽に進みましょう。
悲しいことに人は死を選べません。
不慮の事故、病気、突然死、さらに言えばこれを他人ごとにしている私たち。
私たちがいつか死ぬということを本当に知っておく必要がありましょう。
死んだ後も誰かに影響も及ぶものです。
限られた有限の命。
今の一呼吸でさえも吸う息、吐く息、どちらかが終われば人は死んでしまいます。
死を議論し考えて哲学して立派な答えが出たとしても、その時その考えるアタマは生きているようでも死んでいるに等しい状態です。何故か。それは死という死ぬまでこの身におとずれないことを相手に頭の中で相手にしているからです。今のあなたもそうでしょう。元気がない。本当にここが分かった人は今死なぬ先の世のことを相手にせず、限りある生を重んじるものです。そして、この生を最高、最上に生きる方向へシフトチャンジする。
心に迷いや憂い、ためらい無く生きる道を求める。
それが私たちの人生の最大の目的ともいえましょう。
だからこそ、悟り・涅槃という明晰性とやすらぎを求めて、今生きている人たちとの最高のかかわりを見出していくべきなのです。
かつて悪い奴だ、敵だと思っていた北朝鮮の金正恩が韓国大統領と手を取り合った瞬間、世界の人たちに安堵の心を生みました。
今までは戦うべきだ、戦争するべきだとすら思われていたのです。
それが正しいはずだと思われていたのです。
ところが歴史も世界はひっくり返りました。
人間は今やっていることが正しいと思い誤ってしまうことがあるものです。
今陥ってしまっておられる心理状態もある一定の答えを出されようとして暗中模索な状態であるのかもしれません。「死んではいけない」というのは人間のルール、考えです。
そういうものを立てて、良し悪し、善悪議論をしたらいざ食糧難になったらパンダやコアラやトキは食べてもいいの?ぐらいに終わりはないのです。
故に議論のための議論に陥ってはいけません。
こうしている間に人は年を重ねていきます。
あなたが生きるべきはあの世から元カレが手招きする世界よりも…
どこだと思いますか。
明るい方へ。
何時でもご相談ください。
「有暇具足」
さなこ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教の場合では、悟りへと向けて修行に励むことのできる存在としての「有暇具足」を有する人として生まれられることは、「盲亀浮木」の喩えとして、大海に住む目の見えない老亀が、百年に一度海面に浮き上がってくる時に、たまたまそこに流れてきた穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むというぐらいに、難しいとされています。更に仏様の教えのある世界に生まれて、仏縁を得て、仏様の教えを学び修せられることなど、尚もって難しいことと言われています。
私たちは、そんな有り難い存在であるため、仏教的には、悟りへと向けて、例え一ミリでも前へと進める可能性がある以上は、自死はやはりお勧めできないところとなるのであります。
できれば、皆にしかるべくの仏縁がありて、確かなる仏道を歩み進めることができますように、悟りへと向けた清らかな善き流れに乗れますようにと、拙生も更に努めて参りたいと存じております。
川口英俊 合掌
人生をもったいないと思えるかどうか。
地球に隕石が落ちて全生命が死滅しようと、隕石を叱る神様はいません。宇宙は依然として何も困らない。その意味で、命に"絶対的"な価値などありません。
人間の命が尊いのは、人間同士の心が通いあうからです。人と関わることによって執着が生まれ、ゆえに人を愛し、繋がった心が切れれば痛む。人間よりペットの死の方が悲しい場合もある。逆に現金なもので、知らない人が何人死のうと悲しくもない。感情移入するから愛おしいのであって、所詮命には"相対的"な価値しかありません。そしてその度合いも人それぞれなので、命の価値観も人それぞれ。故に「私はこんなに悲しいのに、あなたはなんで悲しくないの?」などとその程度を比べ合うのもナンセンスな話。
従って同時に、他人を悲しみを「一時的な悲しみ」だと勝手に解釈するのもあなたの身勝手。その方が亡くなったら、あなたにとっては一時的なものでも、一生心に傷が残るほど悲しむ方が確実にいます。比べることがナンセンスである故に、他人の内心を測ることもナンセンス。所詮小さな世界でしかない個人の経験談を、世間へ一般化することはよくある過ちです。他人の価値観の多様さにまで想像が及ぶかどうか。
さらに、苦しみ続けることを前提に人生の価値を語ることもナンセンスです。不治の病で苦痛の末に安楽死という話もありますが、基本的な人生の困難というものは、仏教的には執着から生まれるので、幾らでも脱出(解脱)する方法があります。特にイジメなどがその典型ですが、子供は視野が狭い故に、学校が世界のすべてになってしまっている。だから客観的に見れば、たかが学校なのに、死ぬしかないと思ってしまう。苦しむ人間は大抵、自分の環境を疑うことを忘れしてしまいます。
苦しみながら生き続けること自体がナンセンス。となれば普通に考えて、勝手に幕を下ろしてしまうことを「もったいない」と思いませんか? また色んな楽しいことがあるかも知れないのに。自殺志願する方は、絶望で未来を想像できないのです。自分の人生に理性的な判断を下せる状態ではありません。「死ぬも生きるも君の勝手だよ」と人生の価値を当人に問うなら、絶望から抜け出させてあげた後ですね。
質問者からのお礼
早々のご回答ありがとうございます。
確かに子供の頃よりたくさん見てきたお葬式は檀家の方々のお葬式ですので、直接関わってきたのは父や祖父であり、私にとっては他人で、中には顔もなかなか思い出せない方もいます。
様々な苦労話や人柄の話を聞いて、それでも立ち直る姿を見ていながら、生きなきゃという考えに辿り着かず他の考え方を持ってしまったことをイコール傍観というのであれば、一般論と違う私は不感なのでしょう。
誰かが産んでくれたから、育ててくれたから、何十年も苦しみ続ける義務があるのでしょうか?
命のバトンは、子供を産めない人間にはピンと来ません。誰かの、世の中のために自分を捨ててまで生きる意味はなんでしょうか。
死にたいという人間はある日突然死にたくはなりません。それまでに膨大な苦悩と困難があるケースの方が多いでしょう。そこまで苦しみ抜いた人が、もう疲れた、逃れたいと言った時に、もっと苦しめよとはとてもとても言えません。
仏様はサディストでしょうか。
せっかく、色々お言葉を頂いておきながら、大変申し訳ございません。ただ正直なところ、皆様のご回答を読んで、なんだか自分が死にたくなってきてしまいました。
お手数いただいたのに解決の報告もできず、申し訳ございません。