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何故死んではいけないのでしょうか

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有り難し有り難し 99

先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。
が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。

勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。

お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。
私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。

同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。

私は薄情なのでしょうか。

先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。

自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。
私は人を大切にできない人間なのでしょうか。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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価値観として語るなら自死してはいけないのも自死していいのも1つの価値観です。

戦争が続けば、人殺しは名誉な社会になります。戦争続き過ぎて人々が疲れ果てると、人殺しは悪な社会になります。そしてのど元過ぎて熱さ忘れた頃にまた、「戦争で犠牲が出るのは当たり前じゃん。なにヌルいこと言ってんだ?」みたいなのが出てきて、やがて人殺しが名誉な時代に突入する。

価値観はグルグル、グルグル巡り続けて永遠に人の心を乱し続けるんです。
そうやってグルグル巡り続けることを、お釈迦さまは輪廻と呼んだ。
そしてお釈迦さまは右と左、上下のどれが正解か、ではなく、その右左上下というとらわれの螺旋そのものから抜け出してしまわないと救われないんだな、とお気付きになったんです。

じゃあそうした時に、理屈から抜け出した時に何が残るかというと、ただ生きようとする生命なんですよ。心臓は心臓で勝手に脈打っている。眼は眼で勝手に見ている。血は血で勝手に流れている。
どう考えればスッキリ癒されるか、ではなく、その自然の生命力に全てゆだねてしまった時、苦しみようがない、苦しむ余地がない生を目の当たりにするんです。
それはもう、実感するしか無いんですけどね。

あと、自死に関しては水際で止めることばかり論題に上がりますが、本当はそこに至るまでの道筋、それこそ個人としては情操の段階から、大衆としては社会のあり方の段階から取り組まないといけません。
癌が末期になってようやく病院行ってもお医者さんに出来ることは限られます。お坊さんもお葬式の時しか顔を合わせない人に出来ることは限られます。

話は飛びますがお葬式を数多見てきて、みんな同じに見えたのですか?それは流石に薄情です。やはり80、90まで生きられてゆっくりと息を引き取られた方と、突然死なさった方の影響は全然違います。子の自死をキッカケに家庭崩壊を起こす夫婦だってあるのですよ。

じゃあ何故あなたが皆同じようにいつか立ち直るように見えるか?それは本人が苦しんで、誰かが支えた所を全てスッ飛ばして結果だけ傍観しているからです。「コンビニのバイトってレジ打ちするだけの仕事だから簡単よね」と考えるのと同じです。
もっともそれは、あなたの人格や感受性が欠落しているのではなく、単に人との関わり方が表面的でしたねという話ですが。

追記
ほらね、答えを求めると死にたくなるんです

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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いのちというバトンを伝えていく

 表題に書きましたが、我々のいのちは先祖から受け継ぎ、今此処にあります。そのいのちを(可能な限り)子孫に伝えていくことが生きていく上での大事な役目の一つだと思います。

 10年以上前ですが、こども病院に入院している子供さんたちの手記が載せられている本を読んで感銘を受けました。
『電池が切れるまで』
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JRU5BX0/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 テレビドラマにもなり、テレビ朝日系で放送されました。

 ドラマが放送されて間もないころ、寺の会報に下記のような誌上法話を書きました。

「6月24日の放送のドラマの最終回で、白血病に苦しむ薫という少女がドナーから提供された骨髄の移植手術を受けた後の次のようなセリフを先生役の財前直美さんに語っています。

「あたしね…わかったんだ…あたしの電池は、あたしだけのものじゃないって。」

このセリフは、自分の電池(命)が骨髄提供者のおかげで動いている。ドナーの方の力をいただいて、自分の命がある。という感謝の気持ちからのセリフだと思います。でも、このセリフはすべての人間に当てはまる言葉です。何故なら、すべての人間は「命のバトン」を受けて、この世に生を受け、生きているのです。私たちの電池(命)は、親から先祖から「命のバトン」を受けて、今ここに動いているのです。自分だけのものではないのです。そして、ほかの人達の命もそうなんです。「命のバトン」をつないで、つないで、生まれてきたのです。生きているのです。だから、大切にしましょう。自分の命を、そして他人の命を。
https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/folder/42385.html?m=lc&p=22

この本の中に掲載されていた、小学校4年生の宮越由貴奈さんが書いた「命」という詩も誌上法話の中で紹介させていただきました。どうぞ、この詩も味わってみてください。

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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あなたが目覚めるべきは死ではなく、その人の死後の自らの生。

仏教は生きている内に死んでも大丈夫で死ななくても大丈夫な生き方を生きながらに見出す教えです。
あなたが求めた方がいいのはそこでしょう。自分の答えにあまりしがみつかずに重たいモンは手放してもっと明るい方へ身軽に進みましょう。
悲しいことに人は死を選べません。
不慮の事故、病気、突然死、さらに言えばこれを他人ごとにしている私たち。
私たちがいつか死ぬということを本当に知っておく必要がありましょう。
死んだ後も誰かに影響も及ぶものです。
限られた有限の命。
今の一呼吸でさえも吸う息、吐く息、どちらかが終われば人は死んでしまいます。
死を議論し考えて哲学して立派な答えが出たとしても、その時その考えるアタマは生きているようでも死んでいるに等しい状態です。何故か。それは死という死ぬまでこの身におとずれないことを相手に頭の中で相手にしているからです。今のあなたもそうでしょう。元気がない。本当にここが分かった人は今死なぬ先の世のことを相手にせず、限りある生を重んじるものです。そして、この生を最高、最上に生きる方向へシフトチャンジする。
心に迷いや憂い、ためらい無く生きる道を求める。
それが私たちの人生の最大の目的ともいえましょう。
だからこそ、悟り・涅槃という明晰性とやすらぎを求めて、今生きている人たちとの最高のかかわりを見出していくべきなのです。
かつて悪い奴だ、敵だと思っていた北朝鮮の金正恩が韓国大統領と手を取り合った瞬間、世界の人たちに安堵の心を生みました。
今までは戦うべきだ、戦争するべきだとすら思われていたのです。
それが正しいはずだと思われていたのです。
ところが歴史も世界はひっくり返りました。
人間は今やっていることが正しいと思い誤ってしまうことがあるものです。
今陥ってしまっておられる心理状態もある一定の答えを出されようとして暗中模索な状態であるのかもしれません。「死んではいけない」というのは人間のルール、考えです。
そういうものを立てて、良し悪し、善悪議論をしたらいざ食糧難になったらパンダやコアラやトキは食べてもいいの?ぐらいに終わりはないのです。
故に議論のための議論に陥ってはいけません。
こうしている間に人は年を重ねていきます。
あなたが生きるべきはあの世から元カレが手招きする世界よりも…
どこだと思いますか。
明るい方へ。
何時でもご相談ください。

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「有暇具足」

さなこ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教の場合では、悟りへと向けて修行に励むことのできる存在としての「有暇具足」を有する人として生まれられることは、「盲亀浮木」の喩えとして、大海に住む目の見えない老亀が、百年に一度海面に浮き上がってくる時に、たまたまそこに流れてきた穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むというぐらいに、難しいとされています。更に仏様の教えのある世界に生まれて、仏縁を得て、仏様の教えを学び修せられることなど、尚もって難しいことと言われています。

私たちは、そんな有り難い存在であるため、仏教的には、悟りへと向けて、例え一ミリでも前へと進める可能性がある以上は、自死はやはりお勧めできないところとなるのであります。

できれば、皆にしかるべくの仏縁がありて、確かなる仏道を歩み進めることができますように、悟りへと向けた清らかな善き流れに乗れますようにと、拙生も更に努めて参りたいと存じております。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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人生をもったいないと思えるかどうか。

地球に隕石が落ちて全生命が死滅しようと、隕石を叱る神様はいません。宇宙は依然として何も困らない。その意味で、命に"絶対的"な価値などありません。
 人間の命が尊いのは、人間同士の心が通いあうからです。人と関わることによって執着が生まれ、ゆえに人を愛し、繋がった心が切れれば痛む。人間よりペットの死の方が悲しい場合もある。逆に現金なもので、知らない人が何人死のうと悲しくもない。感情移入するから愛おしいのであって、所詮命には"相対的"な価値しかありません。そしてその度合いも人それぞれなので、命の価値観も人それぞれ。故に「私はこんなに悲しいのに、あなたはなんで悲しくないの?」などとその程度を比べ合うのもナンセンスな話。
 従って同時に、他人を悲しみを「一時的な悲しみ」だと勝手に解釈するのもあなたの身勝手。その方が亡くなったら、あなたにとっては一時的なものでも、一生心に傷が残るほど悲しむ方が確実にいます。比べることがナンセンスである故に、他人の内心を測ることもナンセンス。所詮小さな世界でしかない個人の経験談を、世間へ一般化することはよくある過ちです。他人の価値観の多様さにまで想像が及ぶかどうか。
 さらに、苦しみ続けることを前提に人生の価値を語ることもナンセンスです。不治の病で苦痛の末に安楽死という話もありますが、基本的な人生の困難というものは、仏教的には執着から生まれるので、幾らでも脱出(解脱)する方法があります。特にイジメなどがその典型ですが、子供は視野が狭い故に、学校が世界のすべてになってしまっている。だから客観的に見れば、たかが学校なのに、死ぬしかないと思ってしまう。苦しむ人間は大抵、自分の環境を疑うことを忘れしてしまいます。
 苦しみながら生き続けること自体がナンセンス。となれば普通に考えて、勝手に幕を下ろしてしまうことを「もったいない」と思いませんか? また色んな楽しいことがあるかも知れないのに。自殺志願する方は、絶望で未来を想像できないのです。自分の人生に理性的な判断を下せる状態ではありません。「死ぬも生きるも君の勝手だよ」と人生の価値を当人に問うなら、絶望から抜け出させてあげた後ですね。

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質問者からのお礼

早々のご回答ありがとうございます。
確かに子供の頃よりたくさん見てきたお葬式は檀家の方々のお葬式ですので、直接関わってきたのは父や祖父であり、私にとっては他人で、中には顔もなかなか思い出せない方もいます。
様々な苦労話や人柄の話を聞いて、それでも立ち直る姿を見ていながら、生きなきゃという考えに辿り着かず他の考え方を持ってしまったことをイコール傍観というのであれば、一般論と違う私は不感なのでしょう。

誰かが産んでくれたから、育ててくれたから、何十年も苦しみ続ける義務があるのでしょうか?
命のバトンは、子供を産めない人間にはピンと来ません。誰かの、世の中のために自分を捨ててまで生きる意味はなんでしょうか。

死にたいという人間はある日突然死にたくはなりません。それまでに膨大な苦悩と困難があるケースの方が多いでしょう。そこまで苦しみ抜いた人が、もう疲れた、逃れたいと言った時に、もっと苦しめよとはとてもとても言えません。
仏様はサディストでしょうか。

せっかく、色々お言葉を頂いておきながら、大変申し訳ございません。ただ正直なところ、皆様のご回答を読んで、なんだか自分が死にたくなってきてしまいました。
お手数いただいたのに解決の報告もできず、申し訳ございません。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ