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なんとなく思ったこと

回答数回答 3
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いろいろと考えて思ったのですが、世の中はバランスによって成り立っているような気がします。善があり悪があり、陰があり陽がある。
そして、存在していると信じているものは実は不確実で、存在とは思考により生まれた産物なのだと思います。
例えば、絶対的に「良い」とされる行いを、「良いことをした」と考え、過去の記憶(記録)として覚えておく、誇らしく思うこと、つまり自分の現在や過去の「善」に執着することで「善」を生み出し、同時に「悪」を生み出すことに繋がるのではないか、と思うのです。
ですから、世の中を良くしたいと思うなら「善」の行いを「良いことをしている」という意識を取り払って行い、そして行った事実をできるだけ早く忘れる(執着しない)、ということで世の中が平安になれるのでしょうか?
世の中の悲しみは、「罪悪」ではなくて「罪悪感」、「喪失」ではなくて「喪失感」のように、感覚から来るものが多いような気がします。

ならば、感覚を生み出す「意識」ををコントロールすることで平和にもなれるのかなと思いました。

「以心伝心」のように、人と人の心が繋がっているなら、自分の思考を「無」にすることが、隣の人の心の平安になるかもしれない、そして、それが世界中の平安に繋がるといいなと思いました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無とは

まさに菩薩から仏になる経緯をお話くださいました。有り難いお話です。
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ところで「無」とは何か、を考える必要があるでしょう。
「無」とは充満です。
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満ち溢れた状態を「無」と申します。
何も考えないのではなく、あらゆることに心を配る、それが「無」なのです。
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お互いに気遣いができる世界が目指すところです。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

忘れようとする事すらしない

そうですね。世の中の出来事に意味を付け加えることで、あたかも善悪が存在するかのように捉えてしまっているところに落とし穴があります。

様々な現象はただ起きては過ぎ去っていきます。思いを事実だと思い込みとらわれることで、苦しみます。

過去の記憶は、過去の記憶、そこにもとらわれてはいけません。基本的に様々な思いがでてきても、問題なく消えていきます。忘れよう、早く消そうとすることはそこに執着することです。より忘れられなくなります。そっとしておきながら、次のことをしてるうちに忘れるものです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

善悪にわたらざる 真実

物事の本質には善悪がありません。
よいわるいが付着していないのです。
それが物事の本質的なありようです。
ですが、だからと言って虚無的になってもいけません。
それを知った上で、世の中に求められる善をなすことが大切です。
悪を野放図にしておけばISISのように暴圧が横行します。
元々人間がそういう悪を望まない存在なのです。
安定、安穏、安心、安全、安泰、安寧、安楽…
そういうありようを望むのが人間なのですから、人間の本質に随ったありようで処することが大切です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
💕禅ママ説法💗 禅ママの超簡単!不安消しテクニック! (*´ 艸`) 人生って、ちょっぴり不安がいっぱいよね? でも大丈夫! 「現実」と「頭の中だけ」をちゃんと見分けられるようになれば、不安なんてちっぽけなものよ! だって、みんな「もしも~」「もしかして~」って、頭の中で勝手にドラマ作っちゃってるだけなんだもん。 (˘ω˘) 「あれが起きたらどうしよう」とか「こんなことになったらどうしよう」って、まだ何も起きてないのに、勝手に心配しちゃうのよね。 だから、今この瞬間、目の前にあるものに意識を集中してみよう! ✨ 見えるもの、聞こえるもの、感じてること… そうすれば、どんなに不安なことがあっても、"今ここ" に戻ってこれるわよ! 心配事って、まるで映画の予告編みたいなのよ。 まだ何も始まってないのに、ドキドキハラハラしちゃうでしょ? でも、実際は、今この瞬間、目の前で起きていることだけをちゃんと見ればいいのよ。 そうすれば、心はもっと穏やかになるわよ。 不安を感じたら、ちょっと立ち止まって考えてみてね。 「この不安、本当に今の私に必要?」 「今、目の前で起きていることは、一体何?」 そうやって、現実と想像の違いに気づけば、不安に振り回されることも減っていくわよ。 だから、今日一日も、"今" をしっかり感じて、笑顔で過ごしてね! (*´ 艸`) じゃ、行ってらっしゃい!

質問者からのお礼

邦元様
そうですね、過去の記憶は時間によって薄れていく、私にも経験があります。
数十年前に小説か何かで、「空虚と傷心なら、私は傷心を欲しいと思う。」というような内容の一文を読んだことがありますが、当時は理解できませんでした。実は、悲しみや悲しい感情を恐れているのではなくて、悲しみが薄れていくことを恐れているのかもしれません。
「記憶」を持ち、確認することで自分の存在を確かめているのかもしれません。でも、その「確かである」はずの実感も実は曖昧で、無常である、「無」の奥深さを感じます。
ありがとうございました。

四次元様
こちらこそ、有難いお返事をいただきて、感謝の気持ちでいっぱいです。無とは充満、なるほど、そうか、と思いました。
そして思い出したのですが、数日前、子供が「僕は親友をずっと欲しいと思っているけれどできない。それで、どうして親友が欲しいのかを考えてみた。親友ができれば自分の中の孤独感がなくなると思っていて、孤独を嫌っていたんだ。でも、いろいろ考えてみて気がついたのだけれど、誰と一緒にいても僕は孤独なんだ。でもそれでいいと気がついた。誰でもみんな孤独に生まれて孤独に生き、孤独に死ぬ。でも、孤独で完成されているんだ。僕に必要なものは揃っているんだ。」と言っていました。
私は、世の中は、例えば大きな天秤にたくさんの善が乗っていて、それに釣り合うように悪があるようなイメージを持っています。別の例えなら、女王蟻を失った働きアリの集団が、また別の新しい女王蟻を生み出す、というような、何か自然の法則のような割合が存在していて、それに従っているようなイメージです。
そういえば、確かに幸せを感じた時に充実感のようなものがあります。この満ち足りた感触が「無」なのでしょうか。
有難いお言葉をありがとうございました。
もっともっと、「無」と向き合って考えを深めてみたいと思います。

丹下様
お返事ありがとうございます。こうしてご住職の方に自分の考えを読んでいただいて、説教をいただけるのはとても有難いことだとつくづく感じます。外国にいると特に、貴重な経験になります。
私も、同じように物事の善悪とは、自分の意識の働きかけによって見え方が違うように感じます。ただ、やはり絶対的な善悪も存在するとも思います。例えば、生物を殺める、というのは、背景に関係なく、心の有り様にも左右されず、やはり悪なのだろうと思うのです。
それが刑罰の執行であり、被害者の心を慰める目的や、法治国家としての機能の一部だとしても、やはり命は尊いように思います。
丹下様の戒めのお言葉、身に覚えがあるので、本当にその通りだと思いました。
善悪のみならず、生と死にすら大きな境がない、という実感を得たときに、ならば、どちらでもいいではないか、という様な虚無感を知りました。
この世に生まれてきて、ここは学びの場、魂を成長させたい、その様な考えが先行していましたが、今いる場所での暮らしにもっと根を下ろして、魂だけではない、肉体を持った魂としての生き方というものを探してみたいと思います。

追伸させてください。
物事の本質に善悪はない、ということで今思い出したことなのですが、つい先日、自己催眠というものを自分でしていました。
私の親は、最近で言うところの「毒親」で絶縁中です。ずっと嫌いだと思っていました。
催眠に入る前に、母親に対する自分の思いを書き連ねました。ドロドロとした感情が並びました。催眠に入り、もう一度母親に対する思いを考えると、「かわいい」とか「楽天的」とか、良いイメージばかり浮かんできました。催眠中と前で違うことはおそらく脳波の状態です。でも、それによってこんなに変わるなんて、自分の感情なんて当てにならないな、と思いました。

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