なんとなく思ったこと
いろいろと考えて思ったのですが、世の中はバランスによって成り立っているような気がします。善があり悪があり、陰があり陽がある。
そして、存在していると信じているものは実は不確実で、存在とは思考により生まれた産物なのだと思います。
例えば、絶対的に「良い」とされる行いを、「良いことをした」と考え、過去の記憶(記録)として覚えておく、誇らしく思うこと、つまり自分の現在や過去の「善」に執着することで「善」を生み出し、同時に「悪」を生み出すことに繋がるのではないか、と思うのです。
ですから、世の中を良くしたいと思うなら「善」の行いを「良いことをしている」という意識を取り払って行い、そして行った事実をできるだけ早く忘れる(執着しない)、ということで世の中が平安になれるのでしょうか?
世の中の悲しみは、「罪悪」ではなくて「罪悪感」、「喪失」ではなくて「喪失感」のように、感覚から来るものが多いような気がします。
ならば、感覚を生み出す「意識」ををコントロールすることで平和にもなれるのかなと思いました。
「以心伝心」のように、人と人の心が繋がっているなら、自分の思考を「無」にすることが、隣の人の心の平安になるかもしれない、そして、それが世界中の平安に繋がるといいなと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無とは
まさに菩薩から仏になる経緯をお話くださいました。有り難いお話です。
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ところで「無」とは何か、を考える必要があるでしょう。
「無」とは充満です。
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満ち溢れた状態を「無」と申します。
何も考えないのではなく、あらゆることに心を配る、それが「無」なのです。
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お互いに気遣いができる世界が目指すところです。
忘れようとする事すらしない
そうですね。世の中の出来事に意味を付け加えることで、あたかも善悪が存在するかのように捉えてしまっているところに落とし穴があります。
様々な現象はただ起きては過ぎ去っていきます。思いを事実だと思い込みとらわれることで、苦しみます。
過去の記憶は、過去の記憶、そこにもとらわれてはいけません。基本的に様々な思いがでてきても、問題なく消えていきます。忘れよう、早く消そうとすることはそこに執着することです。より忘れられなくなります。そっとしておきながら、次のことをしてるうちに忘れるものです。
善悪にわたらざる 真実
物事の本質には善悪がありません。
よいわるいが付着していないのです。
それが物事の本質的なありようです。
ですが、だからと言って虚無的になってもいけません。
それを知った上で、世の中に求められる善をなすことが大切です。
悪を野放図にしておけばISISのように暴圧が横行します。
元々人間がそういう悪を望まない存在なのです。
安定、安穏、安心、安全、安泰、安寧、安楽…
そういうありようを望むのが人間なのですから、人間の本質に随ったありようで処することが大切です。
質問者からのお礼
邦元様
そうですね、過去の記憶は時間によって薄れていく、私にも経験があります。
数十年前に小説か何かで、「空虚と傷心なら、私は傷心を欲しいと思う。」というような内容の一文を読んだことがありますが、当時は理解できませんでした。実は、悲しみや悲しい感情を恐れているのではなくて、悲しみが薄れていくことを恐れているのかもしれません。
「記憶」を持ち、確認することで自分の存在を確かめているのかもしれません。でも、その「確かである」はずの実感も実は曖昧で、無常である、「無」の奥深さを感じます。
ありがとうございました。
四次元様
こちらこそ、有難いお返事をいただきて、感謝の気持ちでいっぱいです。無とは充満、なるほど、そうか、と思いました。
そして思い出したのですが、数日前、子供が「僕は親友をずっと欲しいと思っているけれどできない。それで、どうして親友が欲しいのかを考えてみた。親友ができれば自分の中の孤独感がなくなると思っていて、孤独を嫌っていたんだ。でも、いろいろ考えてみて気がついたのだけれど、誰と一緒にいても僕は孤独なんだ。でもそれでいいと気がついた。誰でもみんな孤独に生まれて孤独に生き、孤独に死ぬ。でも、孤独で完成されているんだ。僕に必要なものは揃っているんだ。」と言っていました。
私は、世の中は、例えば大きな天秤にたくさんの善が乗っていて、それに釣り合うように悪があるようなイメージを持っています。別の例えなら、女王蟻を失った働きアリの集団が、また別の新しい女王蟻を生み出す、というような、何か自然の法則のような割合が存在していて、それに従っているようなイメージです。
そういえば、確かに幸せを感じた時に充実感のようなものがあります。この満ち足りた感触が「無」なのでしょうか。
有難いお言葉をありがとうございました。
もっともっと、「無」と向き合って考えを深めてみたいと思います。
丹下様
お返事ありがとうございます。こうしてご住職の方に自分の考えを読んでいただいて、説教をいただけるのはとても有難いことだとつくづく感じます。外国にいると特に、貴重な経験になります。
私も、同じように物事の善悪とは、自分の意識の働きかけによって見え方が違うように感じます。ただ、やはり絶対的な善悪も存在するとも思います。例えば、生物を殺める、というのは、背景に関係なく、心の有り様にも左右されず、やはり悪なのだろうと思うのです。
それが刑罰の執行であり、被害者の心を慰める目的や、法治国家としての機能の一部だとしても、やはり命は尊いように思います。
丹下様の戒めのお言葉、身に覚えがあるので、本当にその通りだと思いました。
善悪のみならず、生と死にすら大きな境がない、という実感を得たときに、ならば、どちらでもいいではないか、という様な虚無感を知りました。
この世に生まれてきて、ここは学びの場、魂を成長させたい、その様な考えが先行していましたが、今いる場所での暮らしにもっと根を下ろして、魂だけではない、肉体を持った魂としての生き方というものを探してみたいと思います。
追伸させてください。
物事の本質に善悪はない、ということで今思い出したことなのですが、つい先日、自己催眠というものを自分でしていました。
私の親は、最近で言うところの「毒親」で絶縁中です。ずっと嫌いだと思っていました。
催眠に入る前に、母親に対する自分の思いを書き連ねました。ドロドロとした感情が並びました。催眠に入り、もう一度母親に対する思いを考えると、「かわいい」とか「楽天的」とか、良いイメージばかり浮かんできました。催眠中と前で違うことはおそらく脳波の状態です。でも、それによってこんなに変わるなんて、自分の感情なんて当てにならないな、と思いました。