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なんとなく思ったこと

回答数回答 3
有り難し有り難し 981

いろいろと考えて思ったのですが、世の中はバランスによって成り立っているような気がします。善があり悪があり、陰があり陽がある。
そして、存在していると信じているものは実は不確実で、存在とは思考により生まれた産物なのだと思います。
例えば、絶対的に「良い」とされる行いを、「良いことをした」と考え、過去の記憶(記録)として覚えておく、誇らしく思うこと、つまり自分の現在や過去の「善」に執着することで「善」を生み出し、同時に「悪」を生み出すことに繋がるのではないか、と思うのです。
ですから、世の中を良くしたいと思うなら「善」の行いを「良いことをしている」という意識を取り払って行い、そして行った事実をできるだけ早く忘れる(執着しない)、ということで世の中が平安になれるのでしょうか?
世の中の悲しみは、「罪悪」ではなくて「罪悪感」、「喪失」ではなくて「喪失感」のように、感覚から来るものが多いような気がします。

ならば、感覚を生み出す「意識」ををコントロールすることで平和にもなれるのかなと思いました。

「以心伝心」のように、人と人の心が繋がっているなら、自分の思考を「無」にすることが、隣の人の心の平安になるかもしれない、そして、それが世界中の平安に繋がるといいなと思いました。

2015年12月25日 0:36

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無とは

まさに菩薩から仏になる経緯をお話くださいました。有り難いお話です。
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ところで「無」とは何か、を考える必要があるでしょう。
「無」とは充満です。
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満ち溢れた状態を「無」と申します。
何も考えないのではなく、あらゆることに心を配る、それが「無」なのです。
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お互いに気遣いができる世界が目指すところです。

2015年12月25日 8:06
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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...

忘れようとする事すらしない

そうですね。世の中の出来事に意味を付け加えることで、あたかも善悪が存在するかのように捉えてしまっているところに落とし穴があります。

様々な現象はただ起きては過ぎ去っていきます。思いを事実だと思い込みとらわれることで、苦しみます。

過去の記憶は、過去の記憶、そこにもとらわれてはいけません。基本的に様々な思いがでてきても、問題なく消えていきます。忘れよう、早く消そうとすることはそこに執着することです。より忘れられなくなります。そっとしておきながら、次のことをしてるうちに忘れるものです。

2015年12月25日 8:39
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有り難し
おきもち

善悪にわたらざる 真実

物事の本質には善悪がありません。
よいわるいが付着していないのです。
それが物事の本質的なありようです。
ですが、だからと言って虚無的になってもいけません。
それを知った上で、世の中に求められる善をなすことが大切です。
悪を野放図にしておけばISISのように暴圧が横行します。
元々人間がそういう悪を望まない存在なのです。
安定、安穏、安心、安全、安泰、安寧、安楽…
そういうありようを望むのが人間なのですから、人間の本質に随ったありようで処することが大切です。

2015年12月26日 9:50
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

質問者からのお礼

邦元様
そうですね、過去の記憶は時間によって薄れていく、私にも経験があります。
数十年前に小説か何かで、「空虚と傷心なら、私は傷心を欲しいと思う。」というような内容の一文を読んだことがありますが、当時は理解できませんでした。実は、悲しみや悲しい感情を恐れているのではなくて、悲しみが薄れていくことを恐れているのかもしれません。
「記憶」を持ち、確認することで自分の存在を確かめているのかもしれません。でも、その「確かである」はずの実感も実は曖昧で、無常である、「無」の奥深さを感じます。
ありがとうございました。

四次元様
こちらこそ、有難いお返事をいただきて、感謝の気持ちでいっぱいです。無とは充満、なるほど、そうか、と思いました。
そして思い出したのですが、数日前、子供が「僕は親友をずっと欲しいと思っているけれどできない。それで、どうして親友が欲しいのかを考えてみた。親友ができれば自分の中の孤独感がなくなると思っていて、孤独を嫌っていたんだ。でも、いろいろ考えてみて気がついたのだけれど、誰と一緒にいても僕は孤独なんだ。でもそれでいいと気がついた。誰でもみんな孤独に生まれて孤独に生き、孤独に死ぬ。でも、孤独で完成されているんだ。僕に必要なものは揃っているんだ。」と言っていました。
私は、世の中は、例えば大きな天秤にたくさんの善が乗っていて、それに釣り合うように悪があるようなイメージを持っています。別の例えなら、女王蟻を失った働きアリの集団が、また別の新しい女王蟻を生み出す、というような、何か自然の法則のような割合が存在していて、それに従っているようなイメージです。
そういえば、確かに幸せを感じた時に充実感のようなものがあります。この満ち足りた感触が「無」なのでしょうか。
有難いお言葉をありがとうございました。
もっともっと、「無」と向き合って考えを深めてみたいと思います。

丹下様
お返事ありがとうございます。こうしてご住職の方に自分の考えを読んでいただいて、説教をいただけるのはとても有難いことだとつくづく感じます。外国にいると特に、貴重な経験になります。
私も、同じように物事の善悪とは、自分の意識の働きかけによって見え方が違うように感じます。ただ、やはり絶対的な善悪も存在するとも思います。例えば、生物を殺める、というのは、背景に関係なく、心の有り様にも左右されず、やはり悪なのだろうと思うのです。
それが刑罰の執行であり、被害者の心を慰める目的や、法治国家としての機能の一部だとしても、やはり命は尊いように思います。
丹下様の戒めのお言葉、身に覚えがあるので、本当にその通りだと思いました。
善悪のみならず、生と死にすら大きな境がない、という実感を得たときに、ならば、どちらでもいいではないか、という様な虚無感を知りました。
この世に生まれてきて、ここは学びの場、魂を成長させたい、その様な考えが先行していましたが、今いる場所での暮らしにもっと根を下ろして、魂だけではない、肉体を持った魂としての生き方というものを探してみたいと思います。

追伸させてください。
物事の本質に善悪はない、ということで今思い出したことなのですが、つい先日、自己催眠というものを自分でしていました。
私の親は、最近で言うところの「毒親」で絶縁中です。ずっと嫌いだと思っていました。
催眠に入る前に、母親に対する自分の思いを書き連ねました。ドロドロとした感情が並びました。催眠に入り、もう一度母親に対する思いを考えると、「かわいい」とか「楽天的」とか、良いイメージばかり浮かんできました。催眠中と前で違うことはおそらく脳波の状態です。でも、それによってこんなに変わるなんて、自分の感情なんて当てにならないな、と思いました。

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

女子高生コンクリート殺人事件犯人への罰

以前、女子高生コンクリート詰め殺人事件という悲惨な事件がありました。 この事件を知り私は、本当にこの事件の犯人が許せず『司法は少年法で犯人たちを庇ったが、神仏は必ず彼らを罰してくれるはずだ』『因果応報があるのなら、この犯人たちは地獄に落ちるだろう』と願いました。 しかし、事件から数十年経過し、数年前、この事件の犯人がまた別の事件で逮捕されたそうです。 聞けば犯人の一部には妻や子供もいて、しかも『俺は人を殺したことあるんだぞ』と、件のコンクリート詰め殺人事件の話をネタに別の人を脅して再逮捕されたそうですね。 これを聞いて、私は絶望しました。 全く反省していないどころか、むしろあの事件のことを新しい犯罪を犯すためのネタにしていたなんてあり得ないです。 コンクリート詰め殺人事件の被害者の女の子は何の落ち度もないのに凄惨な殺され方をされ未来を断たれたのにも関わらず、犯人には家庭もありのうのうと生きています。さらに反省せず再犯を犯してます。 神仏は彼らを罰してくれないのでしょうか? それから、インターネットを見る限り多くの人たちが犯人に怒りを感じ、掲示板に『死ね』などと発言していましたが、犯人たちは一向に元気です。よく『言葉には言霊の力がある』と言われますが、あれだけ恨まれ『死ね』と言われているにも関わらず『言霊の力』は彼らに届いていないのではないか、と思いました。 『言霊の力』だけでなく『生霊』や『念の力』に対しても疑いを感じはじめました。あれだけの人が怒りを感じているのだから誰か一人くらい『生霊』や『念』を無意識にでも意識的にでも飛ばしていてもおかしくないはずなのに、犯人はのうのうとしているみたいだからです。 これでは、犯人に殺された被害者が浮かばれません。 神仏の罰はないのでしょうか。因果応報はないのでしょうか。言霊の力や念の力、生霊なども全部存在しないのでしょうか。

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ターミネーターか人間のどっちかなのか

死刑制度についての質問をさせていただきます。 僕は死刑制度に賛成です。理由は一つで、犯罪への抑止力となっていることと、今までそれで社会が成り立っていたのだから急に廃止することで世の中が混乱するからです。 でも、このままでいいとは思っていません。僕が思う死刑によるデメリットは、 1.刑務官(死刑執行人)への精神的ダメージ(たぶん) 2.死ねば更生するチャンスは二度とない 3.死刑制度は国民の国家に対する甘え 4.死刑囚の国(?)への恨みは他の誰かが相続すること、 つまり殺意は死なないということ →3国家に対する甘えについては、国民が国家に殺してもらうだけでは誰も成長しないのではないかと思ったからです。結局は現状維持で、また同じ苦しみが繰り返されるから、殺人者に共感する能力が育たないまま。 そこで、死刑制度を新しくすることを考えてみました。2と4は変えられないので1と3について解決策を考察しました。 それは、「刑務官(死刑執行人)の仕事が減り、遺族または志願した者が死刑執行代理人となり国の代わりに死刑執行のボタンを押す。代理人は遺族を最優先とすること。死刑執行の一週間前までに5人を死刑執行代理人と決定し、決定してから覆せない」というものです。 つまり、『明らかな人の殺意によって死刑を執行する』という案です。 こう考えた理由は、 A.国に殺人を止める力は無いから。死刑制度は抑止力としてもう限界まで来ていると思う。 B.死刑囚は遺族の悔しさ、怒り、憎しみ、恨み、殺意を真正面から受け取るべきだと思ったからです。(理由は、なにより殺して欲しいと望んでいるのは遺族だから、その殺意が伝わればいずれ更生するための種になるかもしれないから。そもそも国に殺意は無いから。) 前回の問答の後、他の国と比べてみて考え 、死刑が無くても穏やかな国になるが一番いいのではないかと考えました。それに、今ある社会正義は必ず崩れ去るものだと思っています。 でもそんなこと出来やしないので、死刑囚の殺され方なら変えられるのではないかと思いました。僕はターミネーターか人間に殺されるなら人間を選びたいです。(笑) もう何が正しいのか分かりません。 いろいろ間違っているところもありますが、ご回答頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 26
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理不尽だらけの世の中で大人になるのが怖い

私は幼い頃から何か違和感があります。 小学校1年生のとき、クラスメイトの一人が宿題を忘れて教壇の前で先生に怒られていました。皆は自分の席に座りその光景を見ていました。勿論わたしも。 すると先生が私の名前を呼び、「〇〇君は悪い事をしたよね?」と聞いてきました。 私は、目の前でまるで晒し物みたいにされているクラスメイトを見て、違和感を覚えました。確かに宿題は先生との約束だけど、一方的な約束だし、わざわざ皆の前で叱り、恥ずかしい思いをさせなくてもいいのではないか、そして、普通は先生という子どもにとって学校での絶対権力者に「悪いことよね?」と言われて首を横に振ることなんてできません。でも私は最期、先生の怒りが落ちる間際まで首を縦に振ることが出来ませんでした。それが小さな抵抗でした。 それからは、なぜ私は生まれてきたのか。 なぜ学校に行かなければいけないのか。 先生が言うことに皆当たり前の様な顔をして従い、疑問を持たないのか。 大人の言うことは絶対に正しいのか。 校則には厳しいのにいじめは見て見ぬふりのか なぜ動物は殺しても罪に問われないのに、人は殺してはいけないのか 心と肉体は殺すのはどっちの方が悪いのか いじめで自殺に追い込まれても何故罪にならないのか 沢山考えるようになりました 私は自分に正直に生きたいと思うのですが、自分がやりたくないことを美化して言っているだけだと言われます。 それはワガママだと言われます。 私は悪口は言いたくないし、したくないことはしたくありません。私の正直に生きるとは、人に対して誠実であり、理解すること、愛をもつことです。 傷つけてはいないだろうか?ちゃんと向き合うことが出来ているだろうか? 気をつけてはいるのですが、確かに私は自分の意見を押し付け自分の型にはめてしまったり、自分の意見に執着してしまうことがあります。大人になるということは自分が折れることが出来るということだと思います。 でも、ねじ伏せられて皆同じ、個性がないとも思ってしまいます。出る釘は打たれるのだと感じます。 理想と現実の狭間で辛さを感じます。 勉強よりももっと大事な事があるのではないかと思ってしまいます。 思春期だからと言われますが、関係なしに私はやっぱり自由や愛に憧れを感じます。 でも、人に言っちゃいけないことだと言うこともわかっています。 なので、相談できずに苦しいです。

有り難し有り難し 7
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私の理解されにくい考え方や気持ち

私は高校生です。本を読み漁っても曖昧なヒントしか得られません。「人は人を殺してはならない」というのは分かっているし、人を殺めることに肯定的な訳でも加害者を庇う訳でも無いけれど、加害者の生い立ちや事件の背景を見た時に、とても悲しくなるのです。(快楽殺人とは別) ニュースやマスメディアでは表面的に事実を淡々と言い、加害者を責めます。みんなどこか他人事のように感じるのです。 でも、もし、誰かが加害者の背景を事件の裏みたいなものを見れていて、そこに愛や差し伸べられる手があったのなら、何かが変わっていたのかもしれない。生まれながらに悪い人なんていないし、なにがこの人を歪めてしまったのだろうと考えるのです。 繰り返さないためには咎めるのではなくて、愛を持ち続けることでは? 貧困や虐待など、社会全体が目をそらさないことだと思うのです。 なぜ人を簡単に殺めるの?という人がいるけれど、じゃあ、なぜそこを追求しないの?と思うのです。私は加害者の育った環境は大いに影響していると考えるからです。もしも手を差し伸べることが出来たなら、被害者の人生も加害者の人生もこんな結末にはならなかったのでは?と無念の涙が止まりません。高校を卒業したらなにか私にできないだろうかと思います。 私はこのことを言ったりすると、誰もが顔をしかめます。私は私の話を理解できる人に出会えたことがありません。理解されない時のひとりぼっちのような寂しさが辛いです。 私の考え方が変わっているから、みんなに合わせなさいと言われます。私は普通なのに。 学校は苦痛で同級生とは話が合わず、悲しさと自分の至らなさと無力さに苦しんでいます。

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何故人は匿名の場だと辛苦を余計に煽るのか

これは私自身の見識による物なので一概に言えない部分も有ると思いますが… 何故ネットや匿名が許される場所、または普段の生活や仕事でも 一度の失敗で人を痛烈に責めたり、艱難辛苦を煽る人々が居るのでしょうか? 中には疾患を抱えてしまった方や障害と言われる人まで責められる人も居ます 例えば家庭内で虐待を受けた人が学校に相談しても、または虐めが原因で教師に 相談しても取り合ってくれなかった子ども達のニュースを見ると酷く思いますが、更に子どもの時に大人に相談しても聞いてくれなかった事で大人に対する信頼を失い、20代や30代になってようやく行政機関や周囲に相談できた方も居ます。 それまでにもネットや匿名の場所、現実世界でも「甘えるな、苦しむのは当たり前、苦しんだ?だからどうした相談するのは非常識だ、誰もお前の話など聞いていない、お前には先が無い」などと徒らに弱者を責め煽り更に弱者を作り出し、他人同士で生き甲斐を奪い合ってるのを見ると、何故互いに尊重し問題を解決する為の話し合いをしないのか?と思ってしまいます。 お坊さんは、この様な場合どの様な対処法が必要だと思いますか?

有り難し有り難し 11
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