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毒もみのすきな署長さん

回答数回答 4
有り難し有り難し 81

という、宮沢賢治の童話があります。

署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。

「実は、毒もみは私ですがね」

かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。

「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」

皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。

という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。

その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。

大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。

※言葉足らずだったら後で補足します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私もこの話は好きです。

 私は100分de名著でこの話を観て、実際に読んだら非常に面白かった。すべての苦しみが解けた気がしました。世の中は善悪で出来ているわけではないということをこの話は示しております。テーマは「あるがまま」ではないでしょうか。宮沢賢治は非常に仏教的な話を多く作っている気がします。
 賢者か愚者かは別に誰が決めているわけではありませんが、上記の諺は同じことを言っているのではないでしょうか?そしてどちらが良いか悪いかは無いと思ってます。
 あまり、善悪にこだわらず、悪を作らない生き方をしてみませんか?

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実は、私自身も「署長」ですがね

 毒もみの話は初めて知りました。いろいろ考えさせられますね。確かに私自身も(比喩的に)「毒もみはだめだ」と言いながら毒もみをしてしまっているのかもしれません。

 仏教では「同事」という教えがあって、相手の立場になって考えるという事です。
 おっしゃる通り、私たち僧侶は、相手の立場になり、相手の幸せを願って声をかけるべきだと思いました。対等ではないと感じた回答があってごめんなさい。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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ん?

なんか腑に落ちないご質問だなぁ〜と思って過去の問答を拝見したら、あなた、答えは全て持っていらっしゃるんですね。

最初の質問で「子供の頃から疑う心のせいで苦しい」とありますね。
貪・瞋・痴・『疑』・慢・悪見は六大煩悩です。煩悩とは、自分で自分の首を絞めるような苦の原因です。あなたは最初から答えを持っていたんですよ。

でも2つ目の質問、「人間社会に対して、正しく疑いを持たなければ危ないと感じる」。それが辛いことだと分かっていながら、その実感さえも疑って苦しむ。
もちろん社会生活には疑う心も必要ですよ。詐欺もカルトも毒男毒女もいる。でも、疑うことを100か0かで考えたら生き辛いですよ…

で、4つ目の質問で「若い僧侶が注意した青少年に逆ギレされて殴り殺されたと聞いてショックだった。フラッシュバックするほど」とおっしゃりつつ、今回は署長さん。その署長さん、質問文を拝見する限り丸っきりあの青少年ですからね?あなた結局どっちなの?という話です。
なぜそういう形で迷うかというと、それはあなたがお坊さんだけでなくあなた自身を疑っているからです。

そしてお坊さんを疑っている自覚があるから、怒られるハズだと恐れる…前回のご質問は結局どこにお坊さんが傷付く要素があるのか全く分かりませんでした。最近私はあるお寺の奥さんには怒りましたけど、あなたに怒る要素ありませんでしたし、私が見る限り他のお坊さんも誰一人怒った様子はありませんでした。結局それも警戒心からくる疑いの心です。

楽になりたないなら、疑問に思った順に質問するのは絶対に止めるべきです。
数学だって最初に四則演算やって、小学校の算数やって中学校の数学がやって高校の…というように順番にやらないと全くモノになりません。
仏教も同じです。四則演算もおぼつかない人がいきなり微積分やるような質問を繰り返しても、ますます心が迷います。
お寺の坐禅会とか法座みたいな所に定期的に通い、仏教なりの、各宗派なりの、各お坊さんなりの手順にゆだねて順序よく積み重ねていかないと無茶ですよ。

思い切って疑の煩悩と訣別するアクションを起こさないと、何千何万の問答をしても全て悪循環にしかなりません。もう、そんな生き方、疲れたでしょ?疲れていいんです。疲れたから疑いの螺旋を止めたい…それでいいんです。

追記
決め付けてしまい申し訳ありません。失礼しました

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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自分の執着を客観的に愛せるか。

人間の本質は、執着(シュウジャク)を愛する生き物です。仏教は執着からの解脱を推奨しますが、執着に囚われていると理性的な意思決定ができず、結果的に色々苦しみますよという至極理論的な話。人に迷惑を掛けない限り、執着に溺れて死ぬのも本望でしょう。
 "毒もみ"のケースでは、共同体に迷惑掛けていますよね。執着に囚われた人間というのは、思考に柔軟性(寛容性)がないので、社会生活にとっては害悪。パワハラの上司とか。トランプ現象しかり、政治の場面などでもよく目にします。ちなみに、教義に執着した宗教をカルトと呼びます。
 執着を完全に無くすと、すべてを平等に俯瞰できる神様になれるでしょうが、きっと愛情や命の価値もすべて理解できなくなる(サイコパス)ので、人間の身分としてはナンセンスな話です(お釈迦様も所詮人)。
 しかし自分の執着を、絶対の真理だと盲信し他者を排斥する状態と、世界に数多ある執着の一つだと客観視しながら愛している状態とでは、大きな違いがありますよね。他人に迷惑を掛けていないかも確認できますし、なにより自利として、より楽しい執着を見つけられる可能性が広がります。
 仏教は、善行のために自分を押し殺して生きろなどと説いていません。至極合理的な生き方として、執着を俯瞰するとより楽しく人生が送れるよと説いているのです(結果的に善行ともなる)。
 確かに物事を俯瞰するには"知性"が必要です。近視眼的な愚者には、遠い歴史が見えず、足下の経験しか見えない。しかし、自分の執着に少しでも疑問を持とうとする気概さえあれば、愚者は簡単に賢者になれるのです。学歴でも何でもありません。

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質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
字数制限のため、後半が乱暴になりました。

大鐵さん
>テーマは「あるがまま」
その通りだと思います。私は善悪決めつけて考えやすい傾向にあったので、このお話を読んだ時はとても印象に残りました。
>宮沢賢治は非常に仏教的な話を多く作っている
賢治さんは仏教を一生懸命勉強した方で、「法華経日蓮上人にご帰依」を家族や知人に勧めていて、雨ニモ負ケズの最後には「南無妙法蓮華経」と書かれています。
>あまり、善悪にこだわらず、悪を作らない生き方
そうですね。そういうことだと思います。ありがとうございます。

大慈さん
>その署長さん、丸っきりあの青少年
この物語は上記のような理由で、そういう話とは違いますよ。
>お坊さんだけでなく、あなた自身を疑っている
自分を疑う部分があるのは認めますが、お坊さん皆を疑っているわけではありませんよ。私はお坊さんを同じ人間だと思っています。なので、いろんな人が居るだろうなと思っています。
>そしてお坊さんを疑っている自覚があるから、怒られるハズだと恐れる
「怒らないで」と言ったのは、実際に他の方の問答で、ご自分の仰りたいことが上手く伝わらなくて、その末に激怒されている方がいるとお見受けしたからです。また、その方は仏教に対してとても情熱を注ぎ、皆を助けようと頑張っていらっしゃるご様子でしたので、その気持ちがあまりに強く、逆に伝わらないのではと思った故です。ここでは質問以外に伝える方法がないので、何とかこれを見て下さればと思ったのです。私の質問に回答下さる方は、お優しく仰って下さいますが。余計なお世話でしたら、申し訳ありません。
>前回のご質問は結局どこにお坊さんが傷付く要素があるのか
犠牲になった方のご家族や関係者のお坊さんが、こちらで活動されている可能性があると思ったからです。その方が見れば傷付くと思ったのです。なので、前々回のお礼コメントの時にも前置きしたのです。

中山雅紀さん
仰っていること、すごくよく分かります。私も本来であれば、そういう考え方です。ただ、この童話を引っ張ってきたのは上記のような理由によります。そこを上手く伝えられずに誤解を招き、申し訳ありません。

最後に
文字制限だけではなく、私の質問のまとめ方がまずかったのは認めます。
過去の質問を参照なさって分析いただけるのも大変、ありがたいです。何せ、文字情報しかありませんものね・・・ただ、「決めつけ前提」でお話しするのではなく、「そうなのでは?」という疑問形でお話し頂けると、もっと有難かったです。hasunohaは質の高い質問サイトですが、文字のやり取りはとても難しいものがあります。私も含めてですが、そこをもっと考えて頂けましたら、もっと素敵なサイトになると思います。ありがとうございました。

大慈さん(追記に寄せて)
ありがとうございます。私の気持ちが少しでも伝わって嬉しいです。
最初にお礼コメントを書いた時は出来るだけ感情的にならないように、必死に事実だけを書くように努めました。けれど内心は、こんなに伝わらないものなのかと悔しくて、辛くて辛くて、胸が締め付けられるほど、やりきれない気持ちになりました。そんな風に思わせてしまうほど、私の過去の質問は悪く捉えられていたのか・・・真剣に向き合って下さる回答僧の方々に私も本気でぶつかったつもりでした。それが、皆さまを不快にさせてしまったのでしょうか。文字だけのやりとりは、本当に難しいと痛感させられました。ただ、あなたの言葉は一部でも当てはまることはありましたので、それとは別にきちんと考えさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

光禪さん
ありがとうございます。
生意気なことを言って申し訳ありませんでした。けれど、あなたの言葉で私は本当に救われました。ネット上で大事なことを伝えるのは、私が考えている以上に大変なことだと思います。もどかしい気持ちになることも、時には厳しいことも言わなければならないこともあると思います。しかし、それでも私はこのサイトは皆のディープな悩みに寄り添える唯一の電波寺だと思っています。

お坊さんの皆さま
お体に気を付けて、適度に気晴らししながら、皆に「智慧と慈悲」を届けてください。幸運を願っています。

「お坊さん」問答一覧

僧侶になり、お坊さん便に加盟したいです

 現在60です。  最近、退職しました。これから浄土真宗本願寺派の僧侶になって、できたら死ぬまで僧侶として働きたいと考えてます。  まず、僧侶になるためには、得度を許可し所属寺になってくださる師僧さんを探さなくてはいけないこと、そしてそれがかなり大変なことは調べて分かりました。その難関をなんとかクリアーできたとして、その後の僧侶としての生活について教えて頂ければ嬉しいです。  どこかの所属寺に所属する教師僧侶になれたとして、その後、そのお寺に雇って頂くということをまず考えました。しかし、最近では、他人を雇うほど余裕のあるお寺はあまりないと考えました。そこで、自分でネット(イオンやお坊さん便)などを利用して、法事の機会を与えてもらいつつ、修行&生計を立てることができれば、色々良いのではないかと現在考えています。  そこで教えて頂きたいのですが、お坊さん便などを利用して、所属寺外で法事を営むことは、所属寺から許可してもらえるでしょうか?また、許可してもらえるとして、やはり収益の何割かをお礼として喜捨させて頂けば良いのでしょうか。  僧侶になることは真剣に考えています。そこから、生活できるくらいの収入をもちろん得たいと考えていますが(年金が少ないので)、残りの人生を他の人に貢献するために使い切りたいという気持ちが強くあります。ご相談頂ければ大変うれしいです。

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僧侶として人として

父兄は曹洞宗の住職、副住職の僧侶です。 寺族である母が亡くなりました。 その後四十九日、秋春のお彼岸、一周忌、新盆。 何も連絡がありません。 伯母や従姉妹達にも連絡はありません。 亡き母の誕生日に孫達が実家に集まる事も拒否されました。 理由を教えてくれる事もありません。 こちらからの連絡は直接してはならず弁護士を通すように伝えらています。 法要とは故人を偲び、残された遺族が悲しみをのり越えて生きていくために、心の折り合いをつける大切な仏教行事であると思っています。 その機会を尊敬していた僧侶である父兄に一方的に奪われて 驚きと理不尽さと不安で心がいっぱいです。 今年は三回忌になります。 たぶん連絡は来ないでしょう。 お寺で産まれ、一生をお寺の為に尽力した母があまりにも可哀想で不憫でなりません。 今後、僧侶として檀信徒の方々に何を布教していくのでしょうか。 僧侶も人間です。 間違いも犯すでしょう。 保身に走りたくなる気持ちも分かります。 でも、逃げずに向き合う時は必要です。 やってない。俺じゃない。知らない。覚えていない。分からない。 と逃げ回っていても誰も解決などしてくれません。 誤魔化し、嘘をつき、欺くことをやめて 自分の立場を自覚して誠心誠意、他者に対して心を尽くす事を 人して僧侶として今生を生きて欲しいと思っていますが、 無理な願いでしょうか。

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田舎の寺を継いだが辞めたい

はじめまして。 地方の田舎の寺を親から継いだ40代独身です。 20代で修行を終え、最近登記も済ませ、住職となりました。 姉(独身)と父(もう高齢化してきてます)と私の3人でやってます。 母親は檀家の紹介でお見合いし、父と結婚。しばらくアパートで暮らしてましたが、姉が産まれ、しばらくして、弟である私が産まれました。 その後、寺に入ってほしいと祖父母からの要望で、田舎の寺で祖父母と同居となりました。 母はそこそこ有名企業で収入もよく、当時結婚が当たり前の時代、相手はほかにもいたというのに、なぜ寺なんかに嫁いだのか・・・。 私らの子育てがあったので、仕事をやめ、寺で生活してましたが、慣れない祖父母との同居生活、加えて急に来る檀家の対応等で精神疾患となりました。 どうしても無理だと思った母を見かね、父は私らを連れて寺を出ることになりました。寺から1時間程度離れた別の場所に家を建て、そこで私らは育ちました。住所変更も済ませ、学校などもそちらの地元を出ました。 その後、私は専門を出て就職したのですが、父が病気にかかり、寺を継いでやってくれと頼まれまして、仕事をやめ、そのまま修行を終え、寺に入って住み込みで約10年ほどやってきました。 田舎の檀家寺になりますので、近辺のほとんどが昔からの檀家です。 付近の住職死亡後誰もやらなくなった無住の寺を代務でいくつも抱えており、その負担が私に全部来るようになってます。 朝でも夜でも電話もなく、いきなり急に来る檀家が多く、毎回相当なストレスを感じてしまいます。少しでも出れなかったり、いないと、なんでいないんだ?どうなってるんだ?と怒鳴る檀家もいて、もう寺にいたくないとさえ思うことが多いです。 葬式が入れば、戒名いらない、葬式だけ1日でやってくれ、寺に親が昔勝手に建てた墓があるから仕方なく、住職を呼ばないと納骨ができない・・・そんな感じの檀家がほとんどで、毎回対応するのがものすごい大変です。 今はまだなんとか父がいますので、いろいろ聞きながら、私が檀家の接客電話担当、姉は裏方で主婦みたいな感じでやってます。 もう姉も私も結婚は難しいと思ってますし、檀家は全部あわせると400件ほどおり、次はいったいだれがやるのか・・・。 できることなら私と姉はやめて、寺から出ていき、よそから住職呼んで継いでもらいたい・・・甘い考えなのでしょうか?

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祖父の葬儀での出来事

先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。

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何が正しいのかわからない。

私は地方の檀家寺に生まれました。 幼い頃から父にお坊さんになること以外の道を許されず、反論すると暴力や大切なものを壊されたりしてきました。 逆らうことができ学生時代は本山に寄宿しながらの修行生活をしました。 しかし、修行を終え娑婆に帰ってから、自分でやりたいことを選べなかった後悔と青春時代を失った後悔に襲われました。 それと同時に本山から帰ってからは周り(寺族、檀家様、周りの寺院)からの期待が大きくなっていました。 住職が私のいない間に周りのお寺や檀家様に「息子は望んで家を継ぐために本山に修行に行ってる」と意気揚々と話していたそうです。 それだけではなく住職は結婚したら将来同居がすぐできるように二世帯住宅を完成させていました。 結婚しても、食卓でも仕事の話やすぐに機嫌を損ねると癇癪を起こし暴力を振るってきた父と一緒に生活することは相手のことを考えると私はできませんが、、、。 そんな日々が数年続く中で住職から荒行に行くようにいわれました。 私は生まれつき身体も弱いですし、正直行きたくありません。 本山での修行中は家を継ぐ決心や僧侶になる発心がない状態でした。 しかし、逃げずにいたのは本山よりも癇癪を起こす住職の方が怖かったからです。 今は祈祷寺でもないのにこれ以上、修行をしたくないという思いがあります。 そのことを父に話すと癇癪を起こし泣きはじめます。 もちろん、修行道場は自分自身の信仰あって成立することです。望んでもいけない人が大勢います。 縁あって寺に生まれたからといって私のような中途半端な人間が僧侶を志してはいけないと思っています。 本山から帰ってきてからは上記で書いたことや、父の癇癪や、親の言う通りに生きない罪悪感(荒行に行かない)で押し潰されそうになり鬱病になりました。 今は療養施設に入っています。 最後にですが私は決して僧侶という仕事は嫌ではありません。大切な生き方だと思っています。 ①僧侶の皆様は自分の将来をどのように決めてきたか。 ②本山で修行し、周りや親の期待されているが荒行に入らずに今後もその期待に応えれない罪悪感をどうしたらいいのか。 ③私のような人間が僧侶を続けて良いのか。 応えられる範囲でご教示ください。 よろしくお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ