何がなんだか分からなくなりました。
何のために頑張って、復職に向けて努力しているのか?
何で自分は、他者批判をしてしまうのか?
虐められている方も悪いと思ってしまう。
私も虐められていると思ったことも、今思えば教えてくれている。
友達と話してて、飲んでいないにも関わらず、机を叩いてしまった。私の考え方がまずい、態度が甘いということだった。
精神疾患者(私も含めて)は処分してしまえばいいと思いますし、全ての犯罪者は死刑でいいのではないかと思いました。危害を加えてしまう可能性があるので。友達と話をしていてそんな危険なことを考えてしまいました。
立ち直ろうと努力していましたが、不安に思うのは今の程度の生活に執着しているからだと気づきました。そもそも3割以下の負担で医療が受けられるのは贅沢な話ですし、年金制度に支えてもらうという考えが間違いだと思いました。
今の職で何のために働いているのか、
病気になってまでやる仕事なのか、
疑問に思いました。
全てをリセットしたいです。
何もかも分からなくなりました。
自殺したり、他者を傷つけたりということはしませんが、社会の底辺で過ごしたほうがいい人だと、自分が思いました。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
内省する心こそが、生きる希望となります
真摯に内省するひろしさんは立派です。仏教では懺悔(さんげ)ということを大事にします。自分の行った行為を振り返り反省し、過ちを繰り返さないことを誓います。其の時に、懺悔文を唱えます・
我々の日々の行動や思索はすべて善い行いであるとは言えません。悪意が無くても、他人に迷惑をかけたり傷つけたりしてしまうことも多いと思います。悪意が無くても、結果的には悪業を積み重ねてしまうことも多いのです。しかも、「他人を不愉快にしてしまった。傷つけてしまった。」「迷惑を掛けてしまった。」とすぐに気が付くこともありますが、「自分のどこがわるいんだい。」「何も間違ったことはしていない。」と自分自身のことを正当化して信じ込むことも多いんです。そして、後になって自分の失態や失敗に気が付くことも多いんです。そして、今までの自分が為してきた一切の悪業を懺悔するのです。
周囲の誰かに注意されて「そうなんだ。」と気が付くこともありますが、自分で過去の出来事を振り返って「あの時、とんでもないことを言っちまった。」「浅はかだった。」と気が付くことも多いんです。私はこういう「気づき」こそが大事だと思ってます。「気づき」こそが仏心とか仏性が具現化したものと考えております。我々人間は弱く利己的でだらしない生き物ですが、一方で勤勉で誠実で慈悲深い生き物にもなれます。決して完全では無いけれど、様々なハンデイキャップを抱えていても、教育支援や就労支援や社会福祉などの施策によって勤労等多くの社会参加が可能になっていると思います。
仮にひろしさんが過ちを犯したとしても、それは反省し大切な「気づき」を得るのためのプロセスと受け止めましょう。我々個々の人間には他人を裁いたり、生殺与奪したりする権限はありません。社会を維持し秩序を保つための装置として、(完璧なものではないにしても)教育や刑事施策があります。人を拘束したり更正のための訓練を受けさせたりすることもありますが、それは限定的に考えるべきでしょう。
お互いに支え、支えられることによって、能力を引き出したり高めたりすることは出来ます。現実が甘いものでは無いことは重々わかっているつもりですが、「衆生、皆仏子なり」という人間の可能性を信じして生きていきたいと思ってます。常に深く内省するひろしさんならばこそ、自分の可能性を信じ、他者の可能性をも信じて生きましょう。
大丈夫、あるがまま、お互いさま
「大丈夫、あるがまま、お互いさま」と思いましょう。
宇宙全体のダイナミックな変化の中では、あなたも私も、吹けば飛ぶ埃のような危うい存在。
宇宙のバランスが少し変われば、あなたも私も一瞬で消えるでしょう。
しかしそれでも、今、あなたも私も生かされている。
調子にのった言い方をすれば、
「宇宙全体のバランスに自分が必要だから、自分はここに存在を許されているんだ!」。
だから、「大丈夫」。
色んな問題をかかえながらも、生きててよいから生きている。
「あるがまま」の自分と他人を憎まずに、慈しむましょう。
欠点は誰にでもあるので「お互いさま」。
お互いに許し許され、甘えさせてもらい、助け合えばよい。
年金も健康保険も、助け合いの制度。
障害者や病人を助けるための制度なのです。
「大丈夫、あるがまま、お互いさま」。
これは実は、私が仏・法・僧の三宝を拝むときに思う言葉なのです。
仏様を信頼すれば「大丈夫」。
仏が説いた真理(法)は現実の「あるがまま」に気付かせてくれる。
仏の教えを学ぶ私達(僧団)は、不完全な人々の集まりだけど、「お互いさま」と慈しみあう必要がある。
質問者からのお礼
〉願誉浄史 さま
ご回答、ありがとうございました。
私は、理想が高いくせに、自分でその責任を果たすことができません。
記憶の中では、小学生の頃から、親の顔色をうかがいながら、できるだけ親の要望に沿うように行動していました。周りに基準を持っていくため、自分に責任を持てなくなりました。
最近、デイケアに通い、少しずつ自分がしたいことに従って行動するようになってきましたが、気を抜くと悪い癖が出てきます。それで、人間関係を悪くします。苦しいです。調整しながら、改善してきましたが、振り出しに戻ってしまいました。いつから、どうしてこうなったのか、分かりません。外出しましたが、器物損壊してしまいそうで、恐くて帰ってきました。死ぬこともできない。
自殺予防法とか、日本国憲法とか、教育基本法とか、できもしない理想を掲げるなと思ってしまいます。ダメですね。
〉吉田俊英 様
ご回答、ありがとうございました。
確かに、我々、個々の人間には他人を裁いたり、生殺与奪したりする権限はないですね。
私は、人間は元々良いものだと思っていますが、だんだん曲がっていく人がいるんですね。曲がっていった人は、バカにされたり、我慢を強いられたりすることが多いのかなと思います。
もうしばらく、内省したいと思います。