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三縁の慈悲

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おはようございます。先日、慈悲について教えていただいた者です。あの時初めて聞いた仏教の慈悲の種類 - 衆生縁、法縁、無所縁の慈悲について、ずっと考えていました。これでちゃんと理解できたか(勘違いしていないか)、よかったらお暇な時に教えてください。あれこれ訊いてごめんなさい。

衆生縁の慈悲 - 自分の身の回りの人への慈悲、友達への思いやりとかでしょうか。

法縁の慈悲 - わからないです…ご説明お願いします。できれば今回3つの慈悲を一緒に理解したいんです。

無所縁(無縁?)の慈悲 - 対象がないと言われているところがわかりにくいのだけど、縁がないということは全然知らない人に対する慈悲、相手を選ばなくて無償で無限という意味でしょうか。これが仏様の慈悲かなと思います。

ハスノハで初めて仏教を知ったのは先月、仏教は神に奇跡を祈ったりするものではなくて苦しみを減らす考え方を学ぶものなのかな、と何となくわかってきました。少し前まで私は大きな大仏の神様がいて仏教徒の人達はその神様に祈っていると思っていましたが、この世に生きているうちに法則に気づいた人(お釈迦さま)が説いた教えが仏教だったのですね。それなら菩薩とか如来と呼ばれている神様達は何だろうとか、もっと知りたい欲求が出て来て煩悩が増えてしまった気もするけれど、仏教を知ることができてよかったと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ここらで一冊入門書などの本を読む時期ですかねえ

L.Mさんおはようございます。hasunohaを通じて仏教に縁をもっていただきましたこと大変有難く思います。知識も増え、専門語に触れる機会も増え、混乱も生じてきたところでしょうか。
ここらで仏教辞書や専門書を購入してまずは読んでみる時期なのかなとも思います。

私の手元にあるのは法蔵館の仏教学辞典ですが、ここでは

慈〔悲〕
慈は(梵)マイトリーの訳。悲は(梵)カルナーの訳。
衆生を愛し、いつくしんで楽を与える(与薬)のを慈、衆生を憐れみ傷んで苦を抜く(抜苦)のを悲と称し、合わせて慈悲という。仏の悲が衆生の苦を自己の苦として同心同調する姿を同体の大悲といい、その悲の広大さを表して無蓋の大悲(その上を蓋うものがない最上の悲)という。また広大な慈悲を大慈大悲、大慈悲と称する。
大智度論巻四〇などによると慈悲に三種がある。
(1)衆生縁の慈悲。それぞれの衆生に対して起こす慈悲で、これは凡夫の慈悲である。しかし三乗(声聞・縁覚・菩薩)も初めの間はこれに属する。これを小悲という。
(2)法縁の慈悲。諸法は無我であるとの真理をさとって起こす慈悲。これは無学(阿羅漢)の二乗および初地以上の菩薩の慈悲で、中悲という。
(3)無縁の慈悲。あらゆる差別の見解を離れ、縁慮するものさえない所に起こる平等絶対の慈悲で、これは仏の大悲をいう。以上の三種を三縁の慈悲、三種慈悲、あるいは三慈という。

とあります。ここからあとは感じながら触れていくことでしょうかね。

「縁慮」については「対象をとらえて思いはからうこと」ですから、今現在ご理解いただいた内容でそんなに外れていることはないのかなと思います。

私たちは自分の周りの有縁の人にたいし「可愛いそう」とか「愛おしい」という心をもちますが、それで思うがごとく助けることはできません。対象も限定されるし、その思いも徹底されない不完全な慈悲です。
だからこそ、思うがごとく助ける存在である仏、そして仏の教えによって「共に助けられる者」として有縁の方々と出会っていきたいものです。
自分が慈悲を持つ側、助ける側に立って考えてしまうと分からなくなるかもしれません。

L.Mさんはこれから専門的に踏み込むかどうかの岐路にあるのかなと。私としては用語を抑えなくとも仏教のエッセンスに触れる事は十分に可能だとは思いますが…踏み込むなら広大な世界が待っていますよ。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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入門書はこんなにスパルタではありませんが…

ご自分で思っていらっしゃるより遥かに難しいご質問ですよ。入門書にこんなワード出てきません(笑)本がお手元に届いたら「んっ?」となるでしょう。川口師が
>「空性」を理解した上での功徳が求められ…
とおっしゃっていますが、これは「般若(はんにゃ)経典の教えを体得してようやく実践できます」と同義です。吉武師の「諸法は無我であると…」も同義です。
例えると誰々の福音書を1つ丸ごと講義できるくらいです。ぶっちゃけそこまで頑張らなくていいですよ。

が、聞かれた以上は書きます(鬼)。「やっぱり無理だったか、とがっかり」なんかしません。種を蒔くくらいのつもりで回答していますので、数年後、あるいは50年後にでも、いつかピンと来てもらえるといいなくらいの感覚です。ヘビーユーザーな読者さん方も視野に入れてますし。

さて、あくまで私の読み方ですが…
①は常識的にパッと思いつく思いやりです。

②は前回も貼りました『繋がり』のことです。同じの貼っても仕方ないので昔の貼りましょうか。専門用語のオンパレードは印象で押し切るスタイルなのでテキトーに読み流してください。
https://hasunoha.jp/questions/3160

③これは仏教語で言うところの『言語道断』でしょう。俗語では「あまりにも酷い」の意ですが、元々は「言葉で言い表せない」の意です。
悟りって、本当に悟っている時は悟りなんか無いんです。
「赤色だ」と言った瞬間、赤そのものではなく、赤色という概念になってしまう。悟りも悟りと言った瞬間、悟りという概念を頭の中に持ってしまう。そういうことをしていない所です。最近、丹下師がおっしゃっていました。「知覚以上・認識未満」。名言です。
https://hasunoha.jp/questions/26599

んで、あらゆる概念を落とし切った時、自分も他人も第三者も無いんですから、席を譲ることからこの呼吸の一息一息に至るまで、自分もあの人も山も川も草も木もみ〜んなブチ抜いて森羅万象が救われ抜いているんです。

と言われても困るでしょうから教科書的にまとめて締めます。
②は「無償」という概念に基づいて行動しているわけです。
それに対して③は「無償」という理解すら無くホントに無償。
慈悲って何?という概念ではなく、L.Mさんが「あっ、ごめんね」と感じたその瞬間が慈悲なんです。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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質問者からのお礼

吉武文法先生
これ以上進むと広大な世界に入ってしまうのですか….先に聞いていても多分私は踏み出したと思うけれど、実はもう本を注文した後なんです。三縁のご説明ありがとうございます、そしてごめんなさい。本に書いてあるかもしれないのだけどまだ届いていなくて待ちきれなくて、訊いてしまいました。いきなりはじめる仏教生活という本で、この本を紹介してくださったのは曹洞宗のお坊様なのですが、お書きになったのは浄土真宗の方らしいです(わかり易ければ私は宗派にはこだわらないです)。

今までの私の考えでは人が仏になって拝まれるイメージがどうしてもできなくて、成仏の考えを飲み込むのが最初の難関でした。初めにつまずいた問題を乗り越えさせてくださって、ありがとうございます。これからまたあんな難しい問題が出て来るなら進まないほうがよかったかな…いや、それでもやっぱり知りたい気持ちが勝つと思います。

大慈先生ありがとう!
これからは先生とお呼びしてもいいでしょうか。色々教えてくださって先生のようだし、それに自分が様づけで呼ばれるのは似合わない感じがして私は自分が呼ばれる時はさんのほうがいいと思っていました。でも先生より様のほうがよかったら言ってください、直します。

わかりやすく説明しようとすると難しい質問だったのですか….すみませんでした。でも、誓って言うけれど私にはこの質問は説明が難しいから先生を困らせようとか考える知恵や意図はないです。今まで自分が疑問に思った事を次々訊いていたけど、もっと本格的に知りたいと思ったから本を買いました。その本が届いて今読んでいます。三縁については書かれていないみたい。これはこれできっと良い本だと思うし、ちゃんと読んでから次に読む本を考えます。

①は私も経験したことがあるかもしれない。でも②から③にいくにつれて難しくなって、頭で理解しようとしても、それこそもう仏様に悟らせてもらわないとわからない感じです。
繋がりの考え、そういうものだと思うようにしているけれど、いまだに自分が無になるとかすべてが繋がっている感じがどうしてもイメージできません。例えば具合の悪い人を見つけたら助けようとするけど、それは本当の慈悲じゃなくて、人助けはするものだと教わってきた刷り込みみたいなもので私は反射的に行動しているんだと思います。まだみんな繋がっている世界観が理解できているわけではないです。それに、知覚以上・意識未満なんてもう全然わからないし….。でも、ごめんねの気持ちの瞬間私にも小さな慈悲の心が芽生えていたのですね。それを聞いて少し安心しました。

(仏教の難しさ)
私は子供の頃から聖書の絵本を読んで育ったけど、その後、環境や付き合う仲間の関係でカトリックに入ってCCCという教理本をもらって勉強しました。神父さんもアメリカ人だったからすべて向こうの考え方で教わって今の私が出来上がった感じです。だから日本語で宗教を本格的に勉強するのは仏教が初めてです。空とか無我とか今考えても全然わからないし、仏教自体が手におえない大きなものに見えます。広大な世界と聞いて一瞬後戻りしようかと思ったけど、興味のほうが勝って1冊目の本を読み始めました。知りたい事たくさんあるし、このまま進みます。わからない事が出てきたら質問するけれど、私のは切迫した相談事ではないので、そういう相談事に答えてあげた後にもし余裕があったら教えてください。

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

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間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ