こんにちは。
般若心経の
「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」
の部分について疑問があるので質問します。
般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか
「虚しい」とか言うものではなく、
「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」
と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください)
しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか?
「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか?
上記の部分について、字面通りに受け取ると
「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」
て言ってるようにも受け取れてしまいます。
もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・
「現実をそのままに見よ」と言うのが
仏教の基本的な考え方だと思うのですが、
「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と
言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを
否定しているようにも思えるのですが、
如何なものでしょうか?
それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が
仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか?
最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、
上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。
ご教授頂ければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ちょっと補足すると
「縁起として存在し」→みんな繋がってて全
「固有の実体を持たず」→個でもあり全でもある
ということです。
無も同じです。否定の意味ではありません。
無→「固有の実体を持たず」→個でもあり全でもある
だから空も無も同じですけど般若心経の中では、空は「個はそのまま全であり、全もそのまま個」という「個⇄全」のニュアンスなのに対し、無は「個に執着してるところから全にもっていけ」という「個→全」のニュアンスを感じますよね。そこで使い分けられているように思います。
この辺の文脈はすべて「一切の顛倒夢想を離れれば涅槃を究め竟る」にかかってきます。じゃあ顛倒夢想って何よ?といいますと、見たもの聞いたものに頭でアレコレ上書きするなということです。
感覚器官や意識作用をシャットアウトするのが無ではなく、感覚器官や意識作用をそのまんまにしておくのが無であり全なわけです。
人間って、なんとなく眼も耳も鼻も舌も皮膚も意も俺の感覚器官だと思ってますよね。それが違う。
平たく言えば仏様からの授かり物であり、難しく言えば「回互と不回互と回してさらに相い渉る」。つまり眼も耳もどれもそれぞれ独立した個です。俺の眼ではなく、眼は眼なんです。瞼を閉じて視線をさえぎれても、眼そのものを止めることはできませんでしょう?
そして独立した個でありながら、眼耳鼻舌身意を統合しながら認識している。独立しながら統合し、個でありながら全である。
そこで、眼や耳は俺ではなく、全も因縁生起であって俺ではない。どこにも俺が無い。無我なんです。俺が無いから本来、執着のしようがない。
でも人は妄想によって俺を創り出し、アレコレ私物化しようとする。私物化するから執着する。執着するから苦が生じる。私物化すれば苦は生じ、私物化しなけば苦は滅っす。
…という話です。その私物化しないことを無と言います。
理屈で考えるのも頭で上書き編集することではありますが、それを否定すると取りつく島もなくなるのも事実です。無所得の大切さを所得しないと無所得しがたいんですね。
でも、だからって理解しよう理解しようと考えこめばイイってモンでもない。だから読経しようぜ!意味を考えながら読むのではなく、ただ読んで読んだまんま。聞いて聞こえたまんま。それをやってみようぜ、読経で!という話です
追加のご質問があれば新しく立てて下さい
仏教思想における「無」や「空」は,古くから議論されています.般若心経にも「無色無受想行識,無眼耳鼻舌意,無色声香味触法」 とありますが,このような文を見ると全てが否定されているように見えます.しかし,我々は,普段の生活においては疑うことなく「存在」を実感しています.ここに多くの人が矛盾を感じることでしょう.この感覚は決して間違っていません.なぜなら,仏教では「存在」も「無」も認めるからです.重要なのは,何が否定されて,何が否定されないかを見極めることです.
さて,「無色無受想行識,無眼耳鼻舌身意,無色声香味触法」について考えてみましょう.「色受想行識」とは人間を構成する5つの要素です.「眼耳鼻舌身意」とは人間の6つの感覚器官であり,「色声香味触法」とは感覚器官の対象を指します.したがって,これら全てが否定されていることになるのです.
しかし,ここで注意しなければならないのが,何もかもが否定されているわけではないという点です.否定されているのは,色受想行識等の実体的な存在です.実体的な存在とは不変的な固有の本質と言い換えても良いでしょう.仏教においては,色受想行識等には不変的な固有の本質は無いと考えます.
また,我々は「色受想行識」が集まったものに対して「人」とか「私」と言います.ただ,「色受想行識」の一つ一つが「私」ではありません.「色受想行識」の集まりに「私」という名前をつけたに過ぎません.したがって,「色受想行識」を細かく分析しても「実体的な私」を探し当てることはできません.いわゆる「人無我」です.ここで否定されているのは「実体的な私」です.
しかし,我々が普段認識しているように,確かに「私」は存在します.この「私」とは「色受想行識」の集まりにつけた名前としての存在です.
したがって,否定されるものは「実体的な私」であり,否定されないものは「名付けられた私」であります.この区別が非常に重要です.
「眼耳鼻舌身意」や「色声香味触法」も同様に考えて良いでしょう.人間を構成する感覚器官もその対象も実体的には存在しません.ただし,それぞれは名付けられたものとして存在しますし,それらが集まって「私」が存在するのです.
仏教においては,「空」であれ「無」であれ,否定されているもの実体的な存在であり,否定されないものは名付けられた存在であります.
「来るもの拒まず 去るもの追わず」
「オラが身は何が来れど それが何とも言わぬまま、何のアトもとどめず。」
これが我々の身心の活動の真実の姿です。
今見えたもの、音、香り、味、感覚、思い…。
身心という門・ゲートを通り抜けたときに、その時・その場・それ限りで終わっている。
前のことをまるで残さずに。
目耳鼻舌身心という門がありながらもそれさえ忘れている。
名前を付けるのはいつも後からやることでしょう。
これを見ながら目を忘れている。
それを「無」という。
認識にのぼらないこと。
拾い上げ・ピックアップが無いことです。
私の上空では飛行機が飛んでいますが、気にしていない時はありながらもこの身心上には拾い上げが無いのです。
しかも、感覚を感じていながらそれも流し去って、忘れ去っている。
私はキーボードでこれを入力していますが「手がありません(笑)指がありません」。
ここではどういう意味かと申しますと、ありがながらにそれを忘じているということです。
あなたは今背中がありません。足の裏も忘れていたはずでしょう。そういうのを無というのです。無いのでありません。認識にのぼっていないこと。
思い返せばもちろんあるでしょう。
この文字を見ながら目があるでしょうか。
目を忘れているからこそ映画も夢中になって涙が流れていながらも眼を忘じている。
仏教や禅、坐禅とはその最上のあり様としては無為無作です。
この自己を忘れ去ってモノと一体になることです。
「仏道(自己)をならうというは自己を忘るるなり。」道元禅師
自己(自己意識・自分を自分じゃと思うこころ)を忘れてしまっている時は、物事と一体になっているから人間の分析・判断などのものの見方がありません。
平たく言えば「知覚以上、認識未満。」
ドライに言えば悟りの中身は知覚以上・認識未満な心を生きているということです。
なぜなら、この身心というものは何かを為す時に、やっていることが無い状態がある。
携帯・スマホ・PCも触れていない時こそ最高の状態、最高のパフォーマンスを発揮する。
沢山のファイルを移動中に思い作業を重ねればフリーズします。
坐禅や瞑想、仏行中はそれ以外の事をしていません。
心の最高のあり様は、何の為されもないこと。何一つ為されのない様子です。
坐禅の状態はそういう増減も生滅も清濁も苦楽もないのです。
詠春童子様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
『般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。』・・
誠にその認識でほぼ間違いありません。
『「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか?』・・
般若心経の場合の「無」は、まさに「空」と同義の意味解釈で構わないものとなります。
この場合の「無」というのは、賢宗慈海様もおっしゃられておられますように、「実体的な存在」の否定、つまり、モノ・コトの実体性の否定ということになります。
全ては他に依存することによって成り立っており、他に依存せずに、そのものをそのものたらしめている何か独立自存としての実体的なものがあるのかどうかと言えば、そのようなものはどこにも見当たらないということであります。
ただ、実体性は否定されたとしても、そのモノ・コトが「無い」というわけではなくて、縁起として成り立っているとして説明することになります。
縁起には、大まかに三種あり、一つは、因縁(原因と条件)に縁って、もう一つは、全体は部分に縁って、三つ目は、私たちの分別作用に縁って、となります。賢宗慈海様が、「名付けられた存在」とおっしゃられているのは、この三番目のこととなります。
また、下記拙論もご参照下さいましたらと存じます。
『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392
川口英俊 合掌
皆様、ご回答ありがとうございます。
無と言っても単なる否定ではない事、了解いたしました。
ただ、皆様のご回答に共通するのは「実体としての自我は存在しない」
と言う事ですね。
色々と考えさせられました。これからも日々新しい気持ちで
般若心経をお唱えさせて頂きます。
大慈 様
無と空のニュアンスの違い、ご説明ありがとうございます。
また個と全の対比によるご説明も大変考えさせられました。
執着による私物化、なかなか止められるものではありませんが、
見たまんま、聞いたまんまを読経で実践しながら、
少しづつでも精進していきたいと思います。
賢宗慈海 様
「実体としての私」と「名づけられた私」の違い、説明ありがとうございます。
私もナントカ童子などと名乗ってますが、実体は別に本名があり、
さらにその実体は40近いおっさんであり、さらにその実体は・・・
と突きつめていても「実体としての私」にはたどり着けず、
それこと自己への執着と言う事になるのですね。
勉強になりました。ありがとうございます。
川口 英俊 様
実体ではなく、縁起によって事物が存在すると言う事、勉強になりました。
さらに縁起にも3種類あるとの事、ご説明ありがとうございます。
リンク先も拝見させて頂きました。
12縁起の部分など、色々と新しい発見があって大変興味深く拝読させて頂き、
般若心経はやはり大変に「深い」ものなのだと改めて実感致しました。
丹下覚元 様
>「仏道(自己)をならうというは自己を忘るるなり。」道元禅師
おお、この事が正に「無色無受想行識・・・」の真意なんですね。
見て、聞くけど、それにとらわれない事、引き摺らない事、
知覚している自分すら忘れて事物と一体化する事、
「知覚以上・認識未満」の心のありようが仏教なんですね。
ご教授ありがとうございます。