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般若心経の「無」について

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有り難し有り難し 72

こんにちは。
般若心経の
「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」
の部分について疑問があるので質問します。

般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか
「虚しい」とか言うものではなく、
「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」
と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください)
しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか?
「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか?

上記の部分について、字面通りに受け取ると
「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」
て言ってるようにも受け取れてしまいます。
もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・

「現実をそのままに見よ」と言うのが
仏教の基本的な考え方だと思うのですが、
「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と
言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを
否定しているようにも思えるのですが、
如何なものでしょうか?
それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が
仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか?

最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、
上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。
ご教授頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

俺のモンじゃない

ちょっと補足すると
「縁起として存在し」→みんな繋がってて全
「固有の実体を持たず」→個でもあり全でもある
ということです。

無も同じです。否定の意味ではありません。
無→「固有の実体を持たず」→個でもあり全でもある

だから空も無も同じですけど般若心経の中では、空は「個はそのまま全であり、全もそのまま個」という「個⇄全」のニュアンスなのに対し、無は「個に執着してるところから全にもっていけ」という「個→全」のニュアンスを感じますよね。そこで使い分けられているように思います。

この辺の文脈はすべて「一切の顛倒夢想を離れれば涅槃を究め竟る」にかかってきます。じゃあ顛倒夢想って何よ?といいますと、見たもの聞いたものに頭でアレコレ上書きするなということです。
感覚器官や意識作用をシャットアウトするのが無ではなく、感覚器官や意識作用をそのまんまにしておくのが無であり全なわけです。

人間って、なんとなく眼も耳も鼻も舌も皮膚も意も俺の感覚器官だと思ってますよね。それが違う。
平たく言えば仏様からの授かり物であり、難しく言えば「回互と不回互と回してさらに相い渉る」。つまり眼も耳もどれもそれぞれ独立した個です。俺の眼ではなく、眼は眼なんです。瞼を閉じて視線をさえぎれても、眼そのものを止めることはできませんでしょう?
そして独立した個でありながら、眼耳鼻舌身意を統合しながら認識している。独立しながら統合し、個でありながら全である。

そこで、眼や耳は俺ではなく、全も因縁生起であって俺ではない。どこにも俺が無い。無我なんです。俺が無いから本来、執着のしようがない。

でも人は妄想によって俺を創り出し、アレコレ私物化しようとする。私物化するから執着する。執着するから苦が生じる。私物化すれば苦は生じ、私物化しなけば苦は滅っす。
…という話です。その私物化しないことを無と言います。

理屈で考えるのも頭で上書き編集することではありますが、それを否定すると取りつく島もなくなるのも事実です。無所得の大切さを所得しないと無所得しがたいんですね。
でも、だからって理解しよう理解しようと考えこめばイイってモンでもない。だから読経しようぜ!意味を考えながら読むのではなく、ただ読んで読んだまんま。聞いて聞こえたまんま。それをやってみようぜ、読経で!という話です

追加のご質問があれば新しく立てて下さい

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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仏教における「無」とは

 仏教思想における「無」や「空」は,古くから議論されています.般若心経にも「無色無受想行識,無眼耳鼻舌意,無色声香味触法」 とありますが,このような文を見ると全てが否定されているように見えます.しかし,我々は,普段の生活においては疑うことなく「存在」を実感しています.ここに多くの人が矛盾を感じることでしょう.この感覚は決して間違っていません.なぜなら,仏教では「存在」も「無」も認めるからです.重要なのは,何が否定されて,何が否定されないかを見極めることです.

 さて,「無色無受想行識,無眼耳鼻舌身意,無色声香味触法」について考えてみましょう.「色受想行識」とは人間を構成する5つの要素です.「眼耳鼻舌身意」とは人間の6つの感覚器官であり,「色声香味触法」とは感覚器官の対象を指します.したがって,これら全てが否定されていることになるのです.

 しかし,ここで注意しなければならないのが,何もかもが否定されているわけではないという点です.否定されているのは,色受想行識等の実体的な存在です.実体的な存在とは不変的な固有の本質と言い換えても良いでしょう.仏教においては,色受想行識等には不変的な固有の本質は無いと考えます.

 また,我々は「色受想行識」が集まったものに対して「人」とか「私」と言います.ただ,「色受想行識」の一つ一つが「私」ではありません.「色受想行識」の集まりに「私」という名前をつけたに過ぎません.したがって,「色受想行識」を細かく分析しても「実体的な私」を探し当てることはできません.いわゆる「人無我」です.ここで否定されているのは「実体的な私」です.
 しかし,我々が普段認識しているように,確かに「私」は存在します.この「私」とは「色受想行識」の集まりにつけた名前としての存在です.
 したがって,否定されるものは「実体的な私」であり,否定されないものは「名付けられた私」であります.この区別が非常に重要です.

 「眼耳鼻舌身意」や「色声香味触法」も同様に考えて良いでしょう.人間を構成する感覚器官もその対象も実体的には存在しません.ただし,それぞれは名付けられたものとして存在しますし,それらが集まって「私」が存在するのです.

 仏教においては,「空」であれ「無」であれ,否定されているもの実体的な存在であり,否定されないものは名付けられた存在であります.

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有り難し
おきもち

❝知覚以上・認識未満❞=認識にのぼらない=無ということです。

「来るもの拒まず 去るもの追わず」
「オラが身は何が来れど それが何とも言わぬまま、何のアトもとどめず。」
これが我々の身心の活動の真実の姿です。
今見えたもの、音、香り、味、感覚、思い…。
身心という門・ゲートを通り抜けたときに、その時・その場・それ限りで終わっている。
前のことをまるで残さずに。
目耳鼻舌身心という門がありながらもそれさえ忘れている。
名前を付けるのはいつも後からやることでしょう。
これを見ながら目を忘れている。
それを「無」という。
認識にのぼらないこと。
拾い上げ・ピックアップが無いことです。
私の上空では飛行機が飛んでいますが、気にしていない時はありながらもこの身心上には拾い上げが無いのです。
しかも、感覚を感じていながらそれも流し去って、忘れ去っている。
私はキーボードでこれを入力していますが「手がありません(笑)指がありません」。
ここではどういう意味かと申しますと、ありがながらにそれを忘じているということです。
あなたは今背中がありません。足の裏も忘れていたはずでしょう。そういうのを無というのです。無いのでありません。認識にのぼっていないこと。
思い返せばもちろんあるでしょう。
この文字を見ながら目があるでしょうか。
目を忘れているからこそ映画も夢中になって涙が流れていながらも眼を忘じている。
仏教や禅、坐禅とはその最上のあり様としては無為無作です。
この自己を忘れ去ってモノと一体になることです。
「仏道(自己)をならうというは自己を忘るるなり。」道元禅師
自己(自己意識・自分を自分じゃと思うこころ)を忘れてしまっている時は、物事と一体になっているから人間の分析・判断などのものの見方がありません。
平たく言えば「知覚以上、認識未満。」
ドライに言えば悟りの中身は知覚以上・認識未満な心を生きているということです。
なぜなら、この身心というものは何かを為す時に、やっていることが無い状態がある。
携帯・スマホ・PCも触れていない時こそ最高の状態、最高のパフォーマンスを発揮する。
沢山のファイルを移動中に思い作業を重ねればフリーズします。
坐禅や瞑想、仏行中はそれ以外の事をしていません。
心の最高のあり様は、何の為されもないこと。何一つ為されのない様子です。
坐禅の状態はそういう増減も生滅も清濁も苦楽もないのです。

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おきもち

「空と縁起」

詠春童子様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

『般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。』・・

誠にその認識でほぼ間違いありません。

『「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか?』・・

般若心経の場合の「無」は、まさに「空」と同義の意味解釈で構わないものとなります。

この場合の「無」というのは、賢宗慈海様もおっしゃられておられますように、「実体的な存在」の否定、つまり、モノ・コトの実体性の否定ということになります。

全ては他に依存することによって成り立っており、他に依存せずに、そのものをそのものたらしめている何か独立自存としての実体的なものがあるのかどうかと言えば、そのようなものはどこにも見当たらないということであります。

ただ、実体性は否定されたとしても、そのモノ・コトが「無い」というわけではなくて、縁起として成り立っているとして説明することになります。

縁起には、大まかに三種あり、一つは、因縁(原因と条件)に縁って、もう一つは、全体は部分に縁って、三つ目は、私たちの分別作用に縁って、となります。賢宗慈海様が、「名付けられた存在」とおっしゃられているのは、この三番目のこととなります。

また、下記拙論もご参照下さいましたらと存じます。

『般若心経における「空」について』
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/93cd51b49c2264eb00fcc00a904a3392

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

皆様、ご回答ありがとうございます。
無と言っても単なる否定ではない事、了解いたしました。
ただ、皆様のご回答に共通するのは「実体としての自我は存在しない」
と言う事ですね。
色々と考えさせられました。これからも日々新しい気持ちで
般若心経をお唱えさせて頂きます。

大慈 様
無と空のニュアンスの違い、ご説明ありがとうございます。
また個と全の対比によるご説明も大変考えさせられました。
執着による私物化、なかなか止められるものではありませんが、
見たまんま、聞いたまんまを読経で実践しながら、
少しづつでも精進していきたいと思います。

賢宗慈海 様
「実体としての私」と「名づけられた私」の違い、説明ありがとうございます。
私もナントカ童子などと名乗ってますが、実体は別に本名があり、
さらにその実体は40近いおっさんであり、さらにその実体は・・・
と突きつめていても「実体としての私」にはたどり着けず、
それこと自己への執着と言う事になるのですね。
勉強になりました。ありがとうございます。

川口 英俊 様
実体ではなく、縁起によって事物が存在すると言う事、勉強になりました。
さらに縁起にも3種類あるとの事、ご説明ありがとうございます。
リンク先も拝見させて頂きました。
12縁起の部分など、色々と新しい発見があって大変興味深く拝読させて頂き、
般若心経はやはり大変に「深い」ものなのだと改めて実感致しました。

丹下覚元 様
>「仏道(自己)をならうというは自己を忘るるなり。」道元禅師
おお、この事が正に「無色無受想行識・・・」の真意なんですね。
見て、聞くけど、それにとらわれない事、引き摺らない事、
知覚している自分すら忘れて事物と一体化する事、
「知覚以上・認識未満」の心のありようが仏教なんですね。
ご教授ありがとうございます。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

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般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

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無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

有り難し有り難し 45
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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

有り難し有り難し 55
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ