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回答でとても傷ついてしまいました

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以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。

心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。

私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、
猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。

私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。
あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。

私のせいで、私のせいで、私のせいで。

私のせいであの子達は化け猫になってしまう。
猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。

とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。
釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。

仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。
全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。
どうかお救いください。どうか。どうか。

仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。

しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。

こんな事を考える時は涙が止まりません。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者

”私が悼むという意味を知らないから”
”あの子達は化け猫の類になってしまうとか”
お久しぶりです。このような指摘をした張本人です。

まだお分かりになりませんか?

可愛がっていた猫ちゃんが、交通事故などで死んでしまったのは大変不幸でしたし、それに伴いあなたの悲しみが深いのは当然でしょう。しかしながら、その悲しみに取り憑かれて「ただただ疲れました。もう死にたいです。」などと言って正気を失っていくというのは、亡くなってしまった猫ちゃんたちへの追悼にも供養にもなりません。

あなたが猫ちゃんたちと逆の立場だったらどうでしょうか?

あなたが死んでしまったばっかりに、ずっと一緒に過ごしてきた猫ちゃんたちが嘆き悲しんで、死にたい、死にたいと言いはじめたら…自分がいなくなったせいで自暴自棄な生き方、あるいは死に様を選んだとしたら…

なんだかとてつもなく大きな責任を感じませんか?
そんな思いをあのかわいかった猫ちゃんたちにさせてよいものでしょうか?

とはいえ、やはりあなたの気持ちはわからないわけでもありません。
ひとつ提案なのですが、今からでも猫ちゃんたちのお葬式をしてあげてはいかがでしょうか?何宗でもいいので、お近くのお寺さんに相談してみてはいかがでしょうか?これは猫ちゃんたちの慰霊鎮魂だけではなく、きっとあなたにとっても善き発見があるはずです。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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「傷ついた」は、怒りの煩悩の隠れ蓑

私の説明が言葉足らずだったようで、お詫び申し上げます。

仏教は、天・人・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生の六道(6種類の生きもの)からの解脱を目指します。
私もあなたも、来世では畜生に生まれ変わる可能性があります。
ですから、畜生だから軽んじるというのは真逆です。
ただ、畜生は人間よりも事故を予測する能力に欠ける。
それは現実。
私達も畜生に生まれかわったときは、そうなるのです。
また、亡くなった猫が、今は人や天(神様)に生まれ変わっている可能性もあります。
しかし、結局、六道(6種類の生きもの)はすべて苦しみを繰りかえす生き方なのです。
だから、仏教では六道輪廻からの解脱を目指します。
特に、地獄・餓鬼・畜生の三種類は三悪道と呼ばれ、苦しみが多い生きものなのです。
極楽浄土には三悪道がないので、猫も極楽浄土に往生すれば菩薩の姿に生まれかわります。
あるアーティストの歌詞に、
「何もなくなりゃしないのさ 形が変わってゆくだけさ」
というフレーズがありました。
亡くなった猫は、生まれ変わったのであって、どこかでまた生きているはずなのです。
私達生きものは、そうやって出会いと別れを繰り返す苦しみの中で迷いながら生きています。
会うは別れの始めなのです。

総じてご理解いただきたいことは、
変化し続ける現実を受け入れ、過去に執着しないことが、悩み苦しみを減らすコツだということです。
「傷ついた」「ショックを受けた」と言うのは、実は、「私は怒った」という意味なのです。
「傷つきやすい人」は、「怒りっぽい人」なのです。
つまりは、あなた自身の怒りの煩悩(現実を受け入れず嫌がる煩悩)が、あなたを苦しめているのです。
「傷ついた」と言ってしまうと、自分の怒りの煩悩から目をそらし、他人のせいにする可能性があるので、注意が必要です。
仏教は、煩悩から人を救う教え。
自分の煩悩(欲・怒り・怠け・プライド)に気付くのが大事です。
浄土宗では、私達が念仏するとき阿弥陀仏はそれをお聞きになっている、私達が阿弥陀仏を礼拝するとき阿弥陀仏はそれをご覧になっている、私達が阿弥陀仏を想うとき阿弥陀仏も私達を想ってくださっている、と言われます。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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南無阿弥陀仏

猫ちゃんのご命終に哀悼の意を表します。 南無阿弥陀仏

猫ちゃんは死後に化け猫や物の怪の類になどならないでしょう。それどころが死後については「わからない」というのが現実的で科学的な態度です。科学は実証できないものを結論付けることはできませんので死後については「死んでみないとわからない」ということになります。

それなのに、猫ちゃんたちの死後について「どうかお救いください」と祈るという事は、祈る本人が猫ちゃんたちを「救われざるもの」にしてしまってはいないか?という事をお坊さんは説きたかったのではないでしょうか。

「わからないこと」に人間は不安を感じますが、だからといってそれを自分が勝手に想像するネガティブなイメージでとらえてしまう事を「妄想」と言い、妄想を前提としてそこからの救いを祈る事は「迷い」と言います。
その迷いを晴らす方法は妄想ごと捨ててしまう事。そのために妄想から目を覚ます必要があるのはつぐみさんにとっての猫ちゃんたちなど、私たちにとっての亡き大切な存在ではなく自分なのです。
私たちは大切な亡き方の心配をします。それは当然の感情です。しかしそこには、心配するという形で亡き人を心配される必要がある状態にあるものとしてしまう私たち自身の「迷い」があります。ここに、亡き人を心配する私たちこそが亡き方から心配されているという逆転現象があります。

そこに、「真実に目覚めよ」との仏様の願いがあります。仏様は私たちの耳に実際の音声でもって話しかけたりなどしません。歴史上存在した釈尊はもう遥か昔にご命終され、涅槃に入られていますからね。

今、あるのは釈尊が説いた法(教え)と、その法を私たちに伝えてくれる様々な「はたらき」です。その「はたらき」に私たちは仏様を見出すのです。

風は目に見えなくとも風に舞う落ち葉によって風の「はたらき」を見ることができ、そこに風の存在を見出す。

猫ちゃんの死から問われる私の「迷い」によってそこに「迷いがあきらかになった」=「迷いをはらす教え・存在」があったと気づく。その教えや存在が仏様です。

猫ちゃんは救われないものなどではありません。そう捉えてしまうのは私たちの迷いです。その私たちをこそ救いたいと願うのが仏様であり、そこには猫ちゃんも仏様としてはたらいてくださっているという事実があるのです。

南無阿弥陀仏
合掌

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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どの命も等しく尊いです!

ブッダチャリタという釈尊の前世について語られた物語があります。

ある王様は命をとても大切にする王様でした。

ところが、ある日、鷹に追われた鳩が部屋に飛び込んできます。

鳩を助ければ、鷹が餓死してしまうかもしれません、しかし、鳩を鷹に渡せば必ず鷹に食べられて絶命してしまいます。

それで王様は鷹に自分の肉を鳩と同じだけあげるから鳩を食べないでほしいとお願いします。

鷹はその申し出を飲み、計りの片方にはともう片方に王様の身体の肉をのせて計る事にしました。
ところがどんなにのせても計りはまだまだ鳩の方が重かったのです。
そこで王様は命は全て等しいと気付き自分で自分の命を計りの上で断ちます。
すると計りは丁度同じ重さになったと言うお話しです。

蔑みもレベルもありません。皆、同じです。

六道輪廻といいますが、次にどこへいくのかなど決まって無いですから、皆等しいのです。

私も昔、愛猫が不慮の事故で亡くなり苦しみました。

無くなった動物達を保護して導いて下さるのは馬頭観音さまです。お祀りされているお寺を探してお参りいただけましたらと思います。
さらに、心が苦しかったら荼枳尼天にお参りするのも良いと思います。人間をも助けて下さる神格を持った動物の女神様です。

私は仏教は理屈ではないと自分では思っています。
この世で命を授かってそれを生かし切る深い実体験、そこに何の差別も無いと思います。

完全なる喜捨の修行を体現したウサギの話しも残っていますよ。

大丈夫です。
全ての生き物は、すべてのものは、仏さまの現れですから。
決して化け猫などにはなりませんよ。

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仏道に入門して39年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
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「有暇具足」

つぐみ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏陀・如来は、全てを平等にご覧になられます。

人間であれ、畜生であれ、餓鬼であっても。あるいは、自然物であっても。

正確には、一切は実体の無い清浄なる空性であると現量において、全てをご覧にならない仕方にてご覧になられます。(勝義諦)

また同時に並行して、その衆生たちのそれぞれの苦のありよう、縁起のありようも正確に把捉されます。(世俗諦)

そして、慈悲の御心から、お救いの働きかけ(善巧方便)をなさられるのであります。

しかし、現在、残念ながら、この娑婆世界には仏陀・如来は不在のため、釈尊が残された仏法、仏典を頼りとして修習に努めることが望まれるところとなります。

悟りへと至るためには、必ず十分な智慧と福徳(功徳・菩薩行)の集積が必要となります。

波羅蜜乗(顕教)でも、金剛乗(密教)であっても、それは変わりありません。

但し、この二資糧を集積していくためには、この娑婆世界においてであれば、それなりの所化の能力が求められるものになります。いわゆる「有暇具足」というものです。

残念ながら畜生ではそれが及ばなくなってしまっているところがございます。実は、餓鬼、地獄はもとより、修羅、天の境涯でも及ばないのであります。

そのため、娑婆世界であるならば、人間としてであれば、有暇具足を有せられる可能性があるため、生まれ変わりにおいて、どうか人間となることができるように、そして、善き仏縁があり、悟りへと向かうための清らかな善き流れに乗ることができますようにと供養することとなり、他の世界への後生とするならば、仏陀・如来の在世されておられる仏国土・浄土(例えば、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣の無い、苦しみの無い世界であり、阿弥陀如来様が在世されている極楽など)へと向かわせてあげることで、有暇具足に拘わらずに仏道を歩める境涯にさせてあげることが必要となるのであります。(実際に、釈尊在世時では、娑婆世界でも動物に対しての教化もなさられておられました。)

どうか、その子がしかるべき仏縁ありて、善き清らかな流れに乗ることができ、二資糧を集積して、やがて悟りへと至れますようにとして供養、回向申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

皆様ありがとうございました。
きっと私はうつろいやすい心が見せる幻に囚われそれを自分の真意と思い込み迷いさまよっていたのでしょう。
あの子達はそれに気づかせてくれるために仏様から遣わされた存在。
あの子達の教えを無駄にはしません。菩提を弔い心をよく整え生きていきたいと思います。
ありがとうございました。

「お坊さん」問答一覧

僧侶になり、お坊さん便に加盟したいです

 現在60です。  最近、退職しました。これから浄土真宗本願寺派の僧侶になって、できたら死ぬまで僧侶として働きたいと考えてます。  まず、僧侶になるためには、得度を許可し所属寺になってくださる師僧さんを探さなくてはいけないこと、そしてそれがかなり大変なことは調べて分かりました。その難関をなんとかクリアーできたとして、その後の僧侶としての生活について教えて頂ければ嬉しいです。  どこかの所属寺に所属する教師僧侶になれたとして、その後、そのお寺に雇って頂くということをまず考えました。しかし、最近では、他人を雇うほど余裕のあるお寺はあまりないと考えました。そこで、自分でネット(イオンやお坊さん便)などを利用して、法事の機会を与えてもらいつつ、修行&生計を立てることができれば、色々良いのではないかと現在考えています。  そこで教えて頂きたいのですが、お坊さん便などを利用して、所属寺外で法事を営むことは、所属寺から許可してもらえるでしょうか?また、許可してもらえるとして、やはり収益の何割かをお礼として喜捨させて頂けば良いのでしょうか。  僧侶になることは真剣に考えています。そこから、生活できるくらいの収入をもちろん得たいと考えていますが(年金が少ないので)、残りの人生を他の人に貢献するために使い切りたいという気持ちが強くあります。ご相談頂ければ大変うれしいです。

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回答数回答 2

僧侶として人として

父兄は曹洞宗の住職、副住職の僧侶です。 寺族である母が亡くなりました。 その後四十九日、秋春のお彼岸、一周忌、新盆。 何も連絡がありません。 伯母や従姉妹達にも連絡はありません。 亡き母の誕生日に孫達が実家に集まる事も拒否されました。 理由を教えてくれる事もありません。 こちらからの連絡は直接してはならず弁護士を通すように伝えらています。 法要とは故人を偲び、残された遺族が悲しみをのり越えて生きていくために、心の折り合いをつける大切な仏教行事であると思っています。 その機会を尊敬していた僧侶である父兄に一方的に奪われて 驚きと理不尽さと不安で心がいっぱいです。 今年は三回忌になります。 たぶん連絡は来ないでしょう。 お寺で産まれ、一生をお寺の為に尽力した母があまりにも可哀想で不憫でなりません。 今後、僧侶として檀信徒の方々に何を布教していくのでしょうか。 僧侶も人間です。 間違いも犯すでしょう。 保身に走りたくなる気持ちも分かります。 でも、逃げずに向き合う時は必要です。 やってない。俺じゃない。知らない。覚えていない。分からない。 と逃げ回っていても誰も解決などしてくれません。 誤魔化し、嘘をつき、欺くことをやめて 自分の立場を自覚して誠心誠意、他者に対して心を尽くす事を 人して僧侶として今生を生きて欲しいと思っていますが、 無理な願いでしょうか。

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田舎の寺を継いだが辞めたい

はじめまして。 地方の田舎の寺を親から継いだ40代独身です。 20代で修行を終え、最近登記も済ませ、住職となりました。 姉(独身)と父(もう高齢化してきてます)と私の3人でやってます。 母親は檀家の紹介でお見合いし、父と結婚。しばらくアパートで暮らしてましたが、姉が産まれ、しばらくして、弟である私が産まれました。 その後、寺に入ってほしいと祖父母からの要望で、田舎の寺で祖父母と同居となりました。 母はそこそこ有名企業で収入もよく、当時結婚が当たり前の時代、相手はほかにもいたというのに、なぜ寺なんかに嫁いだのか・・・。 私らの子育てがあったので、仕事をやめ、寺で生活してましたが、慣れない祖父母との同居生活、加えて急に来る檀家の対応等で精神疾患となりました。 どうしても無理だと思った母を見かね、父は私らを連れて寺を出ることになりました。寺から1時間程度離れた別の場所に家を建て、そこで私らは育ちました。住所変更も済ませ、学校などもそちらの地元を出ました。 その後、私は専門を出て就職したのですが、父が病気にかかり、寺を継いでやってくれと頼まれまして、仕事をやめ、そのまま修行を終え、寺に入って住み込みで約10年ほどやってきました。 田舎の檀家寺になりますので、近辺のほとんどが昔からの檀家です。 付近の住職死亡後誰もやらなくなった無住の寺を代務でいくつも抱えており、その負担が私に全部来るようになってます。 朝でも夜でも電話もなく、いきなり急に来る檀家が多く、毎回相当なストレスを感じてしまいます。少しでも出れなかったり、いないと、なんでいないんだ?どうなってるんだ?と怒鳴る檀家もいて、もう寺にいたくないとさえ思うことが多いです。 葬式が入れば、戒名いらない、葬式だけ1日でやってくれ、寺に親が昔勝手に建てた墓があるから仕方なく、住職を呼ばないと納骨ができない・・・そんな感じの檀家がほとんどで、毎回対応するのがものすごい大変です。 今はまだなんとか父がいますので、いろいろ聞きながら、私が檀家の接客電話担当、姉は裏方で主婦みたいな感じでやってます。 もう姉も私も結婚は難しいと思ってますし、檀家は全部あわせると400件ほどおり、次はいったいだれがやるのか・・・。 できることなら私と姉はやめて、寺から出ていき、よそから住職呼んで継いでもらいたい・・・甘い考えなのでしょうか?

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祖父の葬儀での出来事

先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。

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何が正しいのかわからない。

私は地方の檀家寺に生まれました。 幼い頃から父にお坊さんになること以外の道を許されず、反論すると暴力や大切なものを壊されたりしてきました。 逆らうことができ学生時代は本山に寄宿しながらの修行生活をしました。 しかし、修行を終え娑婆に帰ってから、自分でやりたいことを選べなかった後悔と青春時代を失った後悔に襲われました。 それと同時に本山から帰ってからは周り(寺族、檀家様、周りの寺院)からの期待が大きくなっていました。 住職が私のいない間に周りのお寺や檀家様に「息子は望んで家を継ぐために本山に修行に行ってる」と意気揚々と話していたそうです。 それだけではなく住職は結婚したら将来同居がすぐできるように二世帯住宅を完成させていました。 結婚しても、食卓でも仕事の話やすぐに機嫌を損ねると癇癪を起こし暴力を振るってきた父と一緒に生活することは相手のことを考えると私はできませんが、、、。 そんな日々が数年続く中で住職から荒行に行くようにいわれました。 私は生まれつき身体も弱いですし、正直行きたくありません。 本山での修行中は家を継ぐ決心や僧侶になる発心がない状態でした。 しかし、逃げずにいたのは本山よりも癇癪を起こす住職の方が怖かったからです。 今は祈祷寺でもないのにこれ以上、修行をしたくないという思いがあります。 そのことを父に話すと癇癪を起こし泣きはじめます。 もちろん、修行道場は自分自身の信仰あって成立することです。望んでもいけない人が大勢います。 縁あって寺に生まれたからといって私のような中途半端な人間が僧侶を志してはいけないと思っています。 本山から帰ってきてからは上記で書いたことや、父の癇癪や、親の言う通りに生きない罪悪感(荒行に行かない)で押し潰されそうになり鬱病になりました。 今は療養施設に入っています。 最後にですが私は決して僧侶という仕事は嫌ではありません。大切な生き方だと思っています。 ①僧侶の皆様は自分の将来をどのように決めてきたか。 ②本山で修行し、周りや親の期待されているが荒行に入らずに今後もその期待に応えれない罪悪感をどうしたらいいのか。 ③私のような人間が僧侶を続けて良いのか。 応えられる範囲でご教示ください。 よろしくお願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ