hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

愛されていなかった、愛されていないと認めてもいいでしょうか

回答数回答 4
有り難し有り難し 91

両親に愛されていない・愛されていなかったと認めることで苦しみが軽くなりました。 こういう風に思うことは間違ってはいませんか?

今まで「親だったら子に対してこうあるべきなのに私の親はそういうことは全くない」と思ってきました。 納得いかなことは挙げればきりがありませんが私の親の対応を人に話すと皆ビックリする状況です。簡単に表現すると「無関心」ということです。経済的にはほどほど裕福でほどほどの地位と名誉を持った親です。)

最近気づいたのですが、「親は普通こうあるべき」と べき論で親を見て、かけ離れている親を認めることができませんでした。
もちろん、世間で普通と言われる状況を基準にすれば私の両親が良い親とは言えません。しかし、両親それぞれが自立していて自分の生き方で生きています。(母はなくなりましたが自立した人生を全うしました。)
私に面倒や迷惑をかけたこともありません。(身勝手ですが)

究極を見つめると「人は誰かのために生きるものではなく、自分の生命維持の為に生きるものだ」と私は思っています。
そういう観点から考えたら両親がしてきたこともまた『そういう生き方であった」と思えます。
 
「べき」を手放してみると、そして、「愛されていなかったんだ」と認めてみたら
親との心の距離が離れ楽になりました。
諦めとかし失望ではなく心の恨みみたいなもの、こだわりが少し無くなった気がします。

このように考える(?)感じることは良いことでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛より慈悲に目覚めよう

「愛されていた」「愛されていなかった」という図式で見ることも「べき論」ではありませんが、似たようなものです。
それによって心の浮き沈みや凸凹が生じるのでしょう。
42%愛されていなかったけど58%愛されていたと思ってみましょう。
本当に愛されていなければ手放したはずです。
虐待されたり、警察沙汰になっていたはずです。現にそういう親子関係も多数存在しています。

「私が望む愛の形ではなかった」と思いましょう。
「ヘタな愛情表現だったけど親なりに愛してくれた」はずです。
親の不完全を認めてあげるのです。
生まれながらに愛情表現が得意な人などいません。
愛をたっぷり受けたからって、わがままちゃんだっています。
真実の愛はあなたが今から生み出せばいいのです。
あなたが誰かに愛を廻らす事こそ一番大切なことではないでしょうか?
愛でなくてもいいのです。
人間の不完全を肯定することで慈悲心が沸くのです。
私どもと一緒にほとけの慈悲を広める活動をなさってください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

はい ^ ^)

子どもを愛せるかどうかは、因縁によるので、自分の子どもを愛せない親が当然います。
もちろんそのことで子どもは苦しむのですが、自分の親は自分を愛するという能力、あるいは因縁がなかった、と認識することで、子どもは楽になるのです。親に愛されなかった子どもにとっては、これは極めて自然な流れです。良いも悪いもなく。

{{count}}
有り難し
おきもち

僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オセアニア、中東、タイ、バングラデシュで活動する指圧師、作家、音楽家。タオサンガ・インターナショナル代表。京都浄土宗和田寺の僧侶。タオ療法、タオ指圧、気心道の創始者。著書は数カ国語に翻訳され世界各地で出版されている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%96%A8%E5%8F%8A が実は、元家出少年です。ティーンエイジャーの頃は、徹底的に自己破壊的な行動を繰り返し、高校も2つ中退しています。現在は、浄土宗和田寺の住職で、一般の人が気軽に修行できる場として、京都と東京に道場を作りました。(道場はその他、世界各地にもあります) なので、修行したい方、人のために涙する方、楽しいことが好きな方はぜひ来て来てください。あなたを歓迎します。 ※毎週、法話を配信しています。書き起こされた法話は、下記でご覧いただくことができます。 http://taosangha.com

怒りを伴わないあきらめ、なら良い

原因がわかれば結果を受け入れられる、ということはあると思います。
ご両親の子育て方法の偏りが原因で辛いことが起きたのだ、そもそもは、あなた自身が悪いわけではなかった、と思えれば良いと思います。

仏教では、怒りや憎しみは悩み苦しみの原因だと考えます。
また、欲や執着も悩み苦しみの原因です。
なので、愛情を注いでくれなかった両親への怒りを捨てること、「もっと愛情を注いで欲しかった」という執着を捨てることは、あなた自身のストレス軽減に役立ちます。
そのような方向に向かうのは、良いと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

べき思考をやめることは良いです

べき思考により、私たちは苦しめられます。男なんだから、女なんだから、受験生なんだから、子供なんだから・・・
すべてその後に「べき」がついて回るのが一般的苦しみ思考。
しかし、私たちの生活には「べき」というものは存在していません。そこに気がついたあなたは素晴らしいです。

親なら子に対しこのような対応をす「べき」ではなく。あなたの親はそのように表現したという事です。よその親と比べてどうこうという事ではなく、それがあなたの親なのです。

愛があるかないかは、ご両親本人にしかわからない事。あなたがあるなしを決める事ではないです。「べき」思考を、卒業し、親からの自立のチャンスだと捉え、あなたが今度、他の人に愛を届けられたらいいですね。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

遅くなりました。 アドバイスありがとうございました。 

帰省の前に質問内容の心境になって帰郷しましたら父との日常が以前よりも穏やかになりました。
帰省中、何度も何度もアドバイスを読み返し考えてみました。

満たされなかった気持ちが消滅したわけではないのですが、その部分に拘りが無くなったようで気にならなくなりました。
愛情があったんだとは思えませんが、「42%愛されていなかったけど58%愛されていた」と感じることができるようになっていました。 (過去のことというよりは今現在の父の態度に対して)
人間の不完全を肯定することが少しできたのかもしれません。
少しだけ自立できたということなんでしょうかね!

まだまだおぼつかないので感情が行きつ戻りつでしょうが一歩一歩ちゃんと自分に向き合っていきたいです。そして、「他の人に愛を届けられる自分」になっていけたらいいなと思います。

ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ