浄土真宗の死後とは
私は浄土真宗です。
死んだら浄土に行くと聞いていましたが、南無阿弥陀と唱えるのは、死後のためではなく、今を生きるためだとも聞きました。
どうしたら念仏することで今を生きるという感覚になるのでしょうか。
死んだ後は浄土にいくのではないならどうなるのでしょうか。
病気でなかなかお寺で聞法できないのでよく分かりません。
浄土には病気が無いとイメージしていたのですが違うのですか?
生きている時「私は私で良かった、あなたはあなたで尊い」と思たらその心こそ浄土と教わったこともありますがうまくつながりません。
10年間以上、生まれつきの要因が大きい病気で体が思うように動かず、学ぶのも働くのも結婚するのも十分にできなくて、その間ずっと「どうしてうまくいかないの」「どうやったらうまくいくの」と考えてきました。
でも、すぐ死ぬ病ではないため、残りの人生おそらく何十年も
あると思いますが、ずっと「どうして」と過ごすのかと思うと馬鹿らしくなってきて、段々、「考えて解決しないことなら考えるのをやめよう」「己の身体的限界を受け入れた方が肩の力が抜けてむしろ楽なのでは」という気になりました。
もうこれ以上は個人で考えて結論が出せるものではなく、宗教を学んで信じることで、余計なことに悩まず、残された力を使い、やれることをやるしかないように思い至りました。
それで急に浄土とはどんなものか、死後についてどう考えるべきか、知りたくなってきました。
健康のために具体的に食事睡眠運動に気をつけるのは最善を尽くせているので、その病気になった人にして体調はマシな方ではあります。
ただ、もう気持ちの面で嘆くのは嫌です。
教えて下さい。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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嘆くのは嫌でも、阿弥陀さまに甘えたらいいんだよ。
いろんなことが、我が身に起こると、今を生きる ということを考えたり、死後の世界に想いを馳せたりしますよねぇ。
人生、なかなか描いているようにいかなくて、思い通りにならないことばかり。
何かが起こると、不安になったり、悲しくなったり。人間の心の 安心 というのは、不安定で、あてにはならないものです。
浄土真宗の仏さまは、南無阿弥陀仏の あみださま、です。
この、阿弥陀さまは、死んだ人だけを救う仏さまではなくて、今を悩みながら生きる人に寄り添ってくださるのですよ。
辛いときは、そばにいるよと。
悲しいときは、一緒に涙してくださり。
嬉しいときは、私も嬉しいなと言ってくださる。
ずっと、ずっと、どんなときでも、どんな私でも、離れず一緒に生きてくださるのです。
決して、一人にはしない と。
私のこの 命を、大事に考えてくださるのですよ。
だから、不安なこの世を、阿弥陀さまの腕に抱かれながら、安心して生きていける。
私も、この身、このまま、阿弥陀さまにおまかせなのです。
辛いこと、悲しいことがあったけれど、今 こうして立てているのも、阿弥陀さまがいてくださるから。
嬉しくて、あたたくて、
ありがとうと、なもあみだぶつ とお念仏して生きています。
病気のために、お寺に行くのが困難なのかな。
それでも、阿弥陀さまは、あなたの お側にいてくださっていますよ。
私のお寺も近いなら、遊びにおいで。
ゆっくり話そう。メールでもいい。
何かあったら、会いにいってあげるよ。
嘆くのは嫌でも、阿弥陀さまに甘えたらいいんだよ(﹡´◡`﹡ )
あなたのそばには、阿弥陀さまがいるよ。
私もいるよ。
念仏申し、今この現実を悩みながら生きる
仏教の信仰による救いとは、目の前に現実の苦がありながら、それを心の持ち様といった観念的(頭の中だけでの考え方・捉え)なものによって悩まなくて済むようになるものではありません。
仏教、特に浄土真宗の人間観では私たちは死ぬまで凡夫(ぼんぶ)です。凡夫とは縁(えん)(=条件や環境)に振り回され、死ぬその瞬間まで悩み、腹立ち、怒り、そねみ、ねたむような存在です。
その凡夫の救いとは悩みがなくなることではなく、悩みながら生きていけるものです。けして観念的な世界に逃げ込むのでなく、しっかりと地に足の着いた現実を離れない歩みです。
つまり、あなたがたどりついた「考えて解決しないこと(以下略」「己の身体的限界を受け入れた方が(以下略」「やれることをやるしかない」というものから遠く離れるものではないでしょう。むしろそこから離れようとする私の目を覚まし続けてくれることが救いです。
私たちはもっと楽なものがあるのではないかと観念的な方向に走りますが、その一つの象徴が「理想世界としての浄土」かもしれません。しかし現実にはどこかに浄土という病も苦も悩みもない理想世界があるわけではありません。
さて、「理想世界としての浄土」がないのと同じように、「過去」も「未来」もどこにもありません。あなたが今を生きている感覚になろうとなるまいとあなたは今しか生きていません。もっと言えば「今」もないのです。あなたが生きているこの瞬間を「今」と呼んでいるだけです。
これと同じように、浄土がどこかにあるのではなく、とあるはたらきを「浄土と呼んでいる」のです。
それは経典にならい、私を事実に目覚めさせてくれるはたらきを空間的に表現した場合に「浄土」と呼び、人格的に表現した場合に「阿弥陀仏」と呼んでいるとも言えるでしょう。そのはたらきに私が触れる具体相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
では、「死後に浄土に行く」とはどういうことを表現したのかというと親鸞聖人のお言葉で言えば「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」です。つまり涅槃(ねはん)(=苦が滅しきられた状態)ですね。
これは死んだら救われるということではなく、死後どうなるか悩むという苦しみから「今」私は救いをいただくということです。
私は死後については「浄土」や「阿弥陀仏」というはたらきにおまかせし、お念仏申す生活を「今」送らせていただいております。
質問者からのお礼
中田様、吉武様、丁寧なアドバイスありがとうございました。
あの後、アドバイスを咀嚼しながら生活したり、浄土真宗の本を読んだりして考えました。
本によると、成功しても自力の努力の力だけでなく、因縁によるものだから、優越感を抱くことはないし、上手くいかなくても、それも因縁によるものなので、劣等感は抱かなくて良いとのことです。
だから阿弥陀様に天命をお任せしてしまって、後は自分ができることで最善を尽くすだけ、それが他力本願、ということなのかなと理解しているのですが、お坊さんからみて正しいのでしょうか…?
とにかく自力の心にとらわれていたようです。
そして、自分はこういう因縁の中ではやれるだけのことはやってきたなと思います。
阿弥陀様を心底信じることはまだできないのです。
でも死後のことは気にならなくなりました。
今ちゃんとやれるだけのことをやりたいです。
悩みながら現実を生きる…阿弥陀様にお任せしながら。
おふたりに話を聞いてもらって、少しずつ飲み込んでいって、ゆっくり考えて、こういう結論になりましたのでご報告しました。
お礼が遅れて申し訳ありません。
大変ありがとうございました。