僧侶がお葬式をする理由
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。
昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…?
日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。
儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。
寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
歴史の教科書と同じく、仏教の教科書も変わりつつあります
昔の学者さんは「お坊さんが葬儀をするのは日本だけ」と言っていましたが、これは大嘘です。東南アジアでもインドの辺りでもお坊さんは葬儀をします。しかもインドの辺りには日本とそっくりの没後作僧(もつごさそう)という形式の葬儀があります。
先祖供養に関しても今の世代の学者さんからは「現世の両親、前世の両親、前前世の両親という数え方だが、先祖供養に当たるものは南方の仏教でも大昔からやっている」と反論されています。
年長者を敬えという教えも普通に『涅槃経』というビッグネームの経典に出てきますしね。
私が儒教的な影響を感じるのはむしろ民間信仰や一般常識レベルの意識においてです。やはり江戸時代の国学(朱子学=儒教)の影響は根強いです。ただ、お坊さんの目からは同じ葬儀の中でも、血脈(けちみゃく)は仏教、守り刀は民間信仰というように別けて見えていますので、その辺の温度差があるのでしょうね。
それにしても…私は「減点方式ではなく、加点方式で考えてください」という形で(○○すべき論)の誤解を破ろうとしているのですが…根が深いですよ…
「根付いてない感がする」のは理由がはっきりしています。日本は本来、自然宗教なのに、明治時代の西洋化で宗教学が創唱宗教(キリスト教)の宗教観を広めたためです。
つまり(創唱)宗教は根付いていないが(自然)宗教は根付いている。だから感性は自然宗教なのに、頭の中の宗教イメージは創唱宗教になった。だから何となく(創唱)宗教が怪しく感じる。でも実は習慣として自然宗教を受け入れている。という現象です。案外に宗教アレルギーな人ほど(中二病気味ですが)仏教的な発想をしていることがよくあります。
最後にお坊さんやコアなファンの方々向けに。
「お釈迦さまがお坊さんは葬儀に参加するなと遺言した」がいかに怪しいか分かる論文を貼っておきます。慣れていないと読みづらいので、精読せず流しでザッと読んで下さい。ちょっと重いかも
https://otani.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1245&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
仏縁を結ぶ
稲荷様
川口英俊でござます。問いへの拙生のお答えでございます。
そうですね。。仏教における祭祀儀礼は、儒教よりか、バラモン教やヒンドゥー教による影響の方が強くあるのかもれません。
葬式(授戒・引導)の仏教的な役割の意味合いとしては、やはり、「仏縁」を正式に結ばせることにあるのではないだろうかと考えております。生前の場合では、授戒・得度、灌頂なども、その役割を担うところとなります。
僧侶がお葬式をする理由としても、その者が確かなる仏縁を結ぶことにより、仏道の清らかな流れに乗りて、やがては迷い苦しみの世界を完全に離れた悟りへと至れるようにとして調えるところであると考えています。
その仏縁を結ぶお手伝いをするのが私たち僧侶の役割としてあるのではないだろうかと存じます。
しっかりと仏縁を結んで頂きまして、清き善き仏道の流れに乗って頂きたいと願うところでございます。
川口英俊 合掌
私としては、私僧侶が葬儀をするというより、葬儀に参列させていただき、家族親族の死という事にどのように向き合うのかを儀式や法話などを通してお伝えさせていただいている、と思っています。
また、そのことが亡き人の望まれることであろうと思っています。
日本や中国の仏教はもちろん儒教の影響も受けています。例えばお位牌は儒教の習慣を取り入れたようです。そしてお位牌は日本の習慣としてしっかり根付いていますね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
>今の世代の学者さんからは…
そんなことになってるんですねえ…
ちょっと論点ずれますが、こういった最前線の研究結果は、なかなか一般にまで降りてこない気がします…やって来た時には最前線の最後尾ほどに時間が経っちゃってるから、延々と追いかけっこしなきゃいけない感じ。歴史の分野では、一部の学者さんがメディア活動されていて、大分浸透してきたみたいですが…
>儒教的な影響を感じるのはむしろ民間信仰や一般常識レベルの意識において
分かります。あっちこっちで儒教的な要素を感じますよね。しかも、ほとんど無意識にやってる…変化しているのは表面的なところだけで、実はまだ前時代のものを引きずってる…?
決して儒教が悪いわけではないんだけれども、残ってるのは言葉ばかりで、肝心の捉え方が自己完遂じゃなくて自分縛りになっっちゃって苦しむパターンに陥りやすくなってるのかしら。
>日本は本来、自然宗教
それだ!宗教が嫌いなわけではないのに、感覚的に違和感を感じるのは、そこかもしれませんね。
災害の多い国だということもあって、最も分かりやすい&説得力があるのは、自然崇拝以外、あり得ないのかもしれません。
>明治時代の西洋化で宗教学が創唱宗教(キリスト教)の宗教観…
以前、Sangaという超マニアックな仏教雑誌をチラ見した時、まったく同じことが書かれていました。…ということは、明治以前の仏教は今の仏教とは違うイメージだったってことでしょうか。生存自体が困難な時代だったからじゃなくて?例えば「溺れるものは藁をもつかむ」的な。
>「お釈迦さまがお坊さんは葬儀に参加するなと遺言した」がいかに…
興味本位で覗いてみました。お釈迦さんの何気ない言葉は、周囲からすると結果的に玉虫色の発言になってました的な感じ?なんだか、言語の成り立ちを見ているようでした。「冷たい」の語源は「爪が痛い」だったみたいな。…変。