命の真実について
いつもお世話になっております。
また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。
浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、
それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか?
人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お浄土は「はたらき」
浄土はどこにあるのでしょうか。修行して悟りを得るとこの世が浄土になる、あるいは見えるようになるかというとそれは違います。仏教の世界観としてはこの世は娑婆世界(穢土・忍土)であり、浄土ではありません。
また、この世は浄土ではないけれど私の心の中に浄土があるということでもありません。これは「唯心の浄土」(一切の存在はすべて心の現れであるという見方から、浄土も自分自身の心の現れであり、心の中に存在するという考え)というものであり、親鸞聖人はこれを否定されておられます。
浄土経典を読むと浄土は死後に生まれて往くところと説かれています。
しかしお釈迦様は生きている人に向かって救いを説きました。生きている人を救うのが生きている宗教です。
すなわち、今生きているあなたにとって浄土はどう関係するのかという問題です。「浄土は死後に生まれて往くところ」という教えが「今のあなたにどうはたらく(影響する・作用する)のか」です。
注意しなければいけないのは実体論に陥ることです。死後に浄土という実体世界があり、そこに生まれ変わる、そしてそこで仏になって、今度は誰かを救うためにまた人となってこの世に生まれ変わってくるという考えです。これは浄土真宗でもなければ仏教でもないでしょう。
あなたの先祖に亡くなった後、あなたを救うために浄土から生まれ変わってきたという人はおられますか?いないでしょう?
でもあなたの先祖は今既にあなたを救おうと「はたらいて」おられます。お葬式の際や日常でもお仏壇でお念仏を申したでしょう?
そこに「浄土のはたらき」があるのです。
正信偈には「報土因果顕誓願」とあります。「報土(浄土)の原因も結果も誓願(阿弥陀仏の本願)に顕れている」ということです。
つまり、浄土建立の原因は全ての人を救いたいという阿弥陀仏(法蔵菩薩)の願いであるのはもちろんですが、結果としてできあがった浄土もまたその願いにあらわれているということです。
浄土とは「本願がはたらく場」です。そのはたらきは往還二回向として説かれます。浄土とは往って還るはたらきです。
あなたが救われたいと願う(往相)はたらきと、あなたを救いたいと願う(還相)はたらき、その両方が「今」「ここ」であなたにはたらいているのです。
そのはたらきに出会う(出会った)具体相が「南無阿弥陀仏」です。
教学的に正確に回答するには本数冊分になってしまうので無理ですが、ご質問を拝見し、ちょっと誤解があるのではと思いご質問に沿って簡単に回答してみます。
話には、理屈の部分と味わいという部分があります。特に浄土真宗では味わいとして感じていく部分があるのですが、その上で、
前半の
> 人はお浄土からこの世に生まれてきて、・・・・人びとを救う為にこの世に生まれてくる
お浄土をいのちの古里と捉え味わい、この娑婆でのいのち終わって浄土に還る(こちらの字です)と捉えます。
「往相」「還相」については曇鸞大師の浄土論註の話からすべきですが、結論を言えば、どちらも私たちが自力でできるものではなくて、他力に由ると教えておられます。他力は、私たちに一方的に差し向けられている阿弥陀さまの願い(はたらき)によるもので、これを本願力とも言います。
人間がこの世である娑婆世界(穢土)から離れて浄土に往生し仏となるということは、自利の成就ですが、自利の成就だけなら仏教になりません。仏教では必ず利他という他を利することがあります。他の人びとも浄土に往生できるようにこの世の人びとへのはたらきかけを行うということです。自分が浄土に往生し阿弥陀仏と同じ悟りを得て仏となった上には、仏ですから仏としてこの世で迷っている人にはたらいて正定の因・信を得て往生浄土の道を歩んでもらうためにはたらいていきます。
人間として生まれてくるというのではなく仏としてとして理解したほうが良いでしょう。
> それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということ
六道輪廻の六道は六つの迷いの世界です。これを出るのが解脱で成仏です。迷いの世界を出て仏のなるのです。仏になる教えが仏教です。仏になった以上はもう六道の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界・天界という迷いの世界に生れません。浄土で仏となった者がまた迷いの人間として生まれるということではりません。仏となった者は輪廻しません。仏となって仏として人間界に来て迷っている人を救うべく仏としてはたらくということです。(正確には還相の菩薩と表現することもありますが省きます)
輪廻転生は仏教的な用語の定義理解がご質問者さんと一致していないと説明しても通じないのでこの用語は回答で用いませんが六道輪廻から出離するという上記の説明でのご理解が進むのではないかと思います。
合掌
水行末。。じゅげむ(寿限無)
仏教の話、人の話、菩薩の話、世界の話、
うまくまとめる力が僕にはまだないので、根拠は省略させてもらってごめんなさい。
人はこの世に生まれる。
命が終えた先の世界として、地獄・餓鬼・畜生など六道に再び生まれる考えではなく、輪廻を卒業した場所に往ってほしいと願う仏がいるという考えに賛同するならば、、
仏の願いに帰依し、法名をいただく。
人々を救うために56億7千万年後に生まれかわるのは弥勒菩薩。
苦しい思い、悩める時間を繰り返したいと思うなら仏の名ではなく、閻魔様やほかの何かの名を呼ぶ形になるかと思います。
命が終わりと浄土に生まれる方法としては観無量寿経の九品往生の訳文を見ると参考になるかと思います。
ただ、真実というと、、、
人間の身体は水分の割合が多い。
水の寿命・水の命については限りがないとしかいえないのも事実です。
水の循環は理科で習うが水の始まりと終わりは教えてもらっていない。
もしかして、50億年前の水が形を変えてわたしの体内を通っているかもしれない。
肺で交換されている酸素の寿命も私は知らない。
なので簡単に循環しない、終わりがあると言い切れない部分もあります。
質問者からのお礼
吉武様、泰庵様、金勝様。
この度はご回答頂き、ありがとうございました。
まだまだ、仏教のことについて、勉強不足でわからないことばかりで、少し混乱しております。
これからもよろしくお願いいたします。