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お釈迦様の不安克服法

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悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。

具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。

同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おそらくそれを言った人は悟っていない

こんにちは。
煩悩のモグラたたきの達人。モグリ丹下です。
わたくしほどのモグラたたきの達人になればもはやモグラ叩きが「モグラ叩かない」になります。
そうです。相手にすらしないのです。
先日もゲームセンターのモグラたたきをお金を入れた後、深い禅定に入っていて、一匹のモグラも叩くことはありませんでした。モグラたたきの機械としても減価償却費が下がらないので「有り難し」。
これぞ煩悩を不安のモグラを撲滅させ、克服する秘奥義「モグラ叩かない」です。
「不安を追いかけ徹底的に潰していったと」いう表記からして、取り組み方が仏教的ではないです。
その人の「論」は間違っていると思います。おそらくその人は悟っていない。己を知らないのです。
不安を追いかけるのは、自分の煩悩を相手にしている姿です。
不安を相手にすればそれはパソコンのファイルクリックと同じ、youtubeの関連動画と同じ。どんどん出てきてしまいます。
ブッダ、覚者、悟りを得ている者は自分の中から沸き起こる思いをわざわざ追いかける事はしません。
出てくる思いというものは元々ワタクシ無き、天然のモノ。
それを自発的に追いかけてつぶそうとすることは人間の私的な活動の姿勢。故にその論は仏教ではないでしょう。
仏教ではないという事はどういうことかというと、物事の真実を言っていないということです。
あなたがもし、自分の不安を無くしたいのであれば、出てくる思いをむしろ追わないことです。
思いは自然に出てくるもの。
それは自分がやっているものではないと悟ることが、あらゆる不安を無くする最上の方法です。
もちろん、例えばガンかもしれない、病気かもしれないという事は、そのままにしておくべきものではないでしょう。
思いというものは一日に数え切れないほど全自動で出てくるものです。
それをいちいちすべて追いかけて言ったら病みます。
縁によって、生じてくるだけのものですから、イチイチ全てを相手にする必要はありません。
今日一日、どんな不安があっても「モグラ叩かない」を実践してみてください。
モグラの方から、コイツはかまってくれないけん、出てこんけんになるとですたい。

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それを言ったのは僕です

具体的には「魔」です。
恐怖の魔、甘い誘いの魔、正しく見ようとすることを妨げ、楽な方に逃げたくなる魔。その顛末をよく観察することです。
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幽霊が怖いからといって逃げる、考えない。いつまで経っても不安と恐怖の根源は消えません。
勇気を持って不安の原因に近づけば、それが風になびく柳の枝なんだとわかるわけです。これで二度と柳を原因に不安になることはありません。これが大事な事であり、現実に即した仏の教えなのです。
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法華経の中のお釈迦様は積極的に自己反省をなさっています。無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)。
文字通り、膨大な量の教えが果たしてどれだけ伝えることが出来ただろうか。教えをタレ流ししたりせず、常に事の顛末を観察なさっていたのがお釈迦様です。
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悟っている大変立派な方から、僕が悟っていないと指摘がありましたが、あなたはそのことは気にしないでくださいね。
ご指摘に反論はありませんので。

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「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れ...
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具体的にというご質問ですので、具体的な所を回答します

具体的には7日7晩の禅定(坐禅)でお釈迦さまは悟りを開きました。もっと具体的には結跏趺坐(けっかふざ)という両足を組む坐り方です。ただですね、お釈迦さまのお弟子さんに弥勒菩薩像のような片脚を曲げて片脚を伸ばす坐り方で悟った女性が500人くらいいらっしゃいますし、形だけの問題ではありません。

じゃあ何が問題なのよというと、自然な話の流れとして内面の問題でしょということになります。ところがこれが実に厄介でして、そもそもお釈迦さまが亡くなって100年ほどの間だけでおよそ20のグループに分裂したほど、荒れやすい話題です。仕方ないですね、一番大切な所ですから真面目な人ほど譲れないわけです。2500年間続く論争です。

その話は深く突っ込まないとして、お釈迦さまはやがて仏教の目標達成のために3つの方法を確立してお弟子さんに教えます。仏教の目標とは安心(あんじん)です。心が落ち着いたというアンシンとは別の単語で、苦から離れた心を言います。そのための3つの方法とは「悪いことをしない」(戒)、「善(よ)いことをする」(禅定)、「分け隔てのない心で生活する」(智慧:ちえ)です。善いことをすると書くと人助けのようなものを想像しがちですが、それはむしろ分け隔てのない心になります。

世界中の全ての宗派はこの3つの方法のモデルチェンジ版です。例えば坐禅=禅定=瞑想というのは分かりやすいですが、念仏だって元を正せば黙って瞑想するか、ブツブツ言いながら瞑想するかの違いでしかありませんでした。密教では○○観というのがありますが、これも禅定の1つのスタイルです。形は違えど、突き詰めれば全てこの3つの方法に行き着きます。ただ、他のご質問で書きましたように浄土真宗だけは末法思想というのを理由にこの3つから決別し、来世でもっと環境の整った場所に行き、それから3つの方法を頑張ろう!というスタンスのを確立した宗派になります。

これら1つ1つをさらに具体的に言い出すと本を執筆するレベルの字数になりますのでご容赦ください。小分けのご質問なら大歓迎です。
う〜ん…イマイチ具体的になりませんでした(苦笑)この3つの方法を三学(さんがく)と言います…と、分かりやすさと具体性を両立したっぽい締めくくりで綺麗にまとめたということにしておきます(オイッ

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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質問者からのお礼

丹下様、けんしょう様、ご回答ありがとうございます。
仏教は難しいですね(汗)。でも、どちらもとても勉強になりました。
もっと様々な見方で、自分自身を極めてみようと思います。
私の複雑な質問に真摯に答えてくださり、本当に感謝しております。

大慈様、ご回答ありがとうございます。
難しい質問で申し訳ございません。
やはり宗教は複雑で難しいのですね。
仏教の中にも違う考え方が存在するところが、とても興味深いと思いました。
勉強したくなりました。

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

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はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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