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思いやりが分からない

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私は他人に優しくできません。自分のことが一番で思いやりにかけてます。
自分の言動を思い返して後から自己嫌悪になります。考え方などを見直せば人の立場になって考えれるようになるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は毎日生まれ変わっている

私もよく上司に同じことを言われるので、わがことのように読ませて頂きました。
仏教では、我利我利といって、そもそも人は自分が 自分が と自分を可愛がる心が人の本性であると説かれいます。ですから、そうなることは当たり前のことで、自己嫌悪されることはないです。当たり前なんですから。問題はどうやってその心をコントロールするかですが、これは単純に一つ一つの積み重ねしかないと思います。
例えば、駅でどの電車に乗ればいいかわからない子供がいるとします。もちろん、そのまま見て見ぬふりをしてスルーすることも可能ですが、その時一瞬考えて、自分の心をコントロールし、助けてあげることができれば、あなたはちょっと優しい自分に生まれ変われたのです。これは決して大げさではなく、本当にそうなのです。
私たちは、なにげなく同じ毎日を送っており、全く変化してないように思いがちですが、実はそうではなく、毎日生まれ続けており、少しずつ昨日の自分とは違うと仏教では説かれています。
しかし、いきなり完璧な優しい人を目指すのは難しいと思います。ですから、毎日 一瞬一瞬を考えて、ちょっとした優しいことを積み重ねていけば、のくさんも少しずつ優しい自分に生まれ変われると思います。

参考までになればいいと思います。

もし個人的に質問や話したいことがありましたら、atukunn18@gmail.comまでメッセージ下さい。いつでも大丈夫です。


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こんにちは。望月亮徳と申します。 宗派は日蓮宗です。なぜハスノハを始めたか。 それは、ふつうに生活している方が仏教に触れる機会が少ないと感じていたからです。 仏教と一般の方の接点といったら法事かお葬式。 人の死に関わる場面でしか仏教に触れられません。 しかし、お釈迦様の教えは 本来 亡くなった方のためにあるのではなく、 「生きている人」のためにあるものです。 仏教とみなさんの接点を少しでも増やし、 生きてる皆さんの悩み解決のお助けが少しでもできればと思いハスノハをはじめました。 よろしくお願いいたしますm(__)m
日時さえ合えばいつでもお受けできます。

みんな基本は自己中。その立ち上がりの前を生きる。

我の立ち上がり、エゴの立ち上がりはふとしたことで生じます。
人間は最初のもともとはノン・エゴです。無我。この心身を自分だと思ってもいません。
そういう時があるということを知っておくとよいでしょう。
今、近くで音楽が流れていますが、曲名もジャンルも知らんままに聞こえています。
日本人って条件付けが多い生き物ですが、本当は誰でも条件付けなしに効いているものです。
私が好きなアーティストは顔がブチャイクさんです。
純粋にその人の音楽を楽しんでますから、顔がブチャイクだろうがなんだろうが気にならないのです。
それが音楽を聴くということではないでしょうか。
いつしか音楽が見世物になった。エンターテイメント性を持っていないといけないような流れになった。
ところが、耳は相手の顔など気にしません。
ただ流れていることをそのまま聞いています。
それが無我のさまです。
優しくできないのは相手に対して距離があるのではないでしょうか。
わざわざ優しくしようとして優しくする必要はありません。
人間の無我状態で接すれば自然と仲良くなって心理バリアがないままに接することができるので、無条件で誰とでもお友達になれるのです。
誰とでもお友達になれれば、誰にでもお友達に接するようになるのです。すげー。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
日々の積み重ねを大事にし、また優しい人になろうと考えすぎず過ごしていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ