お世話になります。 お題目の なむみょうほうれんげきょう と、 なんみょうほうれんげきょう の違いを教えてください。
覚りを開くべく学んでおります。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
日蓮大聖人様のお言葉に『異体同心』がありますね。 肝心なことは文字づらに留まらず本体を観る。『文底秘沈』です。 物事の現象からその本質に迫る姿勢が大切です。
おきもちが累計1300件を超えました
長年の胸の痞えが執れました。 スッキリしました。 ありがとうございます(ー人ー) なむみょうほうれんげきょう。
自分は仏教について全く詳しくありません。 しかし、仏教を辞めたという知り合いから先日こんな事を言われました。 一切皆苦、四苦八苦、諸行無常… 仏教は当たり前の事を言ってるだけで、何の救いも無い宗教だと分かった。 この世の中は抗えない事が多いから、諦めて受け入れて、死になさい。 そういう宗教だと分かった…と。 本当にそうなのでしょうか? 住職の方々の意見をお聞きしたいです。
少し、仏教(日本の仏教、大乗仏教?かわかりませんが)を調べてみたのですが、三毒という概念が出てきました。そこの怒り、瞋は世の中を悪くする毒だという考え方に触れました。 ですが、私が思うにこの毒こそ、今の世の中に必要な薬ではないのでしょうか? 今のしらけきっている世の中では本当に救われる存在に対して別に心動かさない。私と関係ないという愛のない空気が漂っています。そんな中だからこそ、ちゃんと憎むべきだと思うのです。不正や、不義を見つけ、恨み、ほかの不正、不義に怒り、徳をかざすもの(徳の騎士)達の闘いこそが、この世の中に血を通わせると思うのです。確かに多くの人達が死ぬでしょう、正義もみつからないでしょう。ですが、不毛なものではないと思うのです。その痛みを知ったからこそ愛を求め、与えることができるのではないのでしょうか。転じて、少し仏教ディスをしますが、なぜそういった熱い魂を毒と切り捨て、平穏という退廃を望むのですか?それは持っているもののみ、自身の苦しみに気づかずに他人を傷つける愚者を増やすだけではないのでしょうか?それでは真に救うべき絶望に抗い、戦う者達に失礼ではないですか?そのものらは心の安寧のために戦っていると?一度、絶望したものは死ぬまで安寧とは無縁の人生を送るでしょう。そんな者達に安寧は残されていると?彼らはただ絶望と戦い、苛烈に人生という闘争の中、死ぬことだけが救いだと思うのですが、どうでしょうか?
仏教をもっと知りたくて、ネットを活用していたところ、 hasunohaさんを知りました。 過去のQ&Aを拝見させて頂くと、 実際の僧侶の方々のお答えの方が難しい言葉を並べた活字より、 私には馴染みやすいような気がします。 (以下はプロフィールと重複しますが) 縁あって(しかもまったく別件で2度)、真言宗に関わるようになり 30年近くになります。 その頃は少しずつ、作法等を教わったのですが、 2年ほどで絶縁したため、基本を知らず、現在に至ります。 昨年、不思議なご縁の下で ホントに自分がやりたい事は何か?を 時間を掛けて自分に問い、 やはりご縁のあった仏道を進みたい。 今世に生まれた意味を知りたい。 そして少しでも人様のお役に立つのなら・・・ まずは 読んでるお経の意味を知るべきよね、 仏教用語的な言葉の意味も知るべきよね、 と、ネットで検索三昧。 そうなるとどんどん拡大してしまって、 真言宗ってそもそも・・・ 父方は浄土真宗でお寺さんもすぐ近く。 浄土真宗ってどんな考え方なの? 大日如来、阿弥陀様やお釈迦様って? などいろいろと知りたいことが増えてしまいました。 言葉が適切かはわかりませんが、 効率的な学び方を教えて頂きたくてこの場をお借り致しました。
こんにちは。初めて質問いたします。 お寺や修行のドキュメンタリーを見ることが多いのですが、その中でよく修行僧の方が「○○をさせていただく」(例えば回峰行であれば、歩かせていただくという風に)という表現をよくされることに気づきました。 こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義はあったりするのでしょうか? 初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
『100万回生きたねこ』を読みました。 猫が何度も生まれ変わってようやく解脱(?)するところが感動的だったのですが、仏教っぽい気がしました。 他にも、この作品のこの部分は感動したし仏教的に感じる、というようなものがありましたら是非教えて頂きたいです。
私は好奇心があるため、ダライ・ラマやエドガー・ケイシーの説く神秘の世界に魅了されてしまいました。仏教徒である私にとって、生きている間に余計な知識に囚われるのは無駄なことでしょうか。
コロナ禍もあり、現在心療内科に通院中です。様々な心身症状に苦しんでいます。アドバイスで、毎日些細なことでも良いのでなるべく、前向きなこと、ポジティブなことに目を向けるようにしておりますが、中々うまくいきません。(日記をつけることを推奨されています) 一日無事に終わったとか、食事が美味しかったとか、空がきれいだったとか、当たり前と思っていることに感謝をすることかと思います。 一方、仏教では生まれてきた事自体が苦であるとしていると思います。前向きな考えやポジティブシンキングは、苦の中にあっても可能なのでしょうか。
外国人です、今日本語と唯識を勉強しています。成唯識論は第七巻まで読みました。横山紘一さんの本もたくさん買いました。 でもわからない部分があります。 1 あるお坊さんは『縁起論は無因論でもなく、宿命論でもないです。選択によって世界は変わるんです』と言いました。 なら、偶然論と必然論のほかは、第三の論がありますか?第三の論はありませんよね?偶然論以外は必然論、必然論以外は偶然論でしょう? 選択によって世界は変わるって、選択自体は必然ですか?偶然ですか? 2 横山さんの本には『一人一宇宙』『一人ひとり各人の世界はその人の阿頼耶識が作り出したものであり、各別である』と書いてあります。 もし一人一宇宙なら、どうして他人は自分の宇宙にいますか?どうして他人と交流できるのですか? 他人は自分の宇宙にいるなら、他人と交流できるなら、世界は一人一宇宙ではなく、多人一宇宙になってしまうんですよね? 私の考えには間違いがありますか?間違いを教えてください、よろしくお願いいたします!
先日同居していた独身の伯母が亡くなり、甥姪に遺産が分配されることになりました。 その相続人の中にMという従姉がいます。 Mは3年前に亡くなった伯母の一人娘なので600万円、私は姉と2人姉妹なので300万円ずつ分配される予定です。 私と姉は父が遺した莫大な借金のせいで自己破産して苦しい生活をしていたので伯母の遺産は生活を立て直す最後のチャンスだと思っています。 ところがMはある新興宗教にハマっていて(ネットで検索すると○○寺詐欺と出てくる有名な新興宗教です)、伯母と私の両親の供養をするから私と姉に600万払えと言ってきました。 Mが傾倒しているお寺の住職さんが 「伯母と私の両親が私と姉がお金を出さないので成仏できずに苦しんでいる」 と霊視で言われたと言うのです。 私の両親は檀那寺のお坊さまにきちんと供養していただいています。 なのでそれを断ると私たち全員地獄に堕ちると脅してきました。 そもそも亡くなった伯母はその宗教を嫌っていたのに、Mが勝手に自分が傾倒しているお寺で永代供養をすると言って遺産の中から800万払えとも言っています。 お骨もそのお寺(かなり遠方です)に持って行くと言っていて、私は伯母が何の縁もない土地に葬られるのが気の毒です。 伯母は祖父母が入っている納骨堂に入るものだと信じていたはずなのに、Mが勝手にお骨まで持って行くのが伯母に申し訳なく思います。 何百万円とお金を払わないと死者は成仏できないのでしょうか。 Mは生活費を削って借金をしてでも払えと言っています。 私の家は浄土真宗本願寺派でMがハマっているのは真言宗系の新興宗教です。 地獄の沙汰も金次第なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
先日のご回答、ありがとうございました。 お陰様で、今の生活を充実させて楽しく暮らせています。 次の質問をお願い致します。 私は仏教が好きですが、ひとつ、モヤっとしていることがあります。 それは、仏になることを目指さなければいけないのか?!という点です。 悟ってしまったら楽しく無いんじゃないかなぁ?と今の私は思ってしまうんです。たとえば、素敵な異性に素敵だと思われたい欲、仲良くしたい欲、 そういうのも無くなるだろうなと。 現状は、そういう明るい欲が、生きている中での楽しみや張り合いになってる気がします。 そのようなわけで、仏教に興味持っていながら申し訳ないのですが、如来になるのを目指すということにコミットできていません。うやむやにしたまま、仏教ライフ送っています。 私が用いている勤行用の作法本に発菩提心真言も載っているので唱えていますが、 菩提心を本心から起こせていないのに 唱えてて良いのかな?とも思います。害はないのではと思うので、そのまま唱えていますが。 さんまや戒も唱えています。 如来を目指す決心はついてないよ、、だけどおつとめは好きだからするよ、という私に 何かアドバイスやヒントがありましたら、ご回答お願い致します。