念仏
念仏を1度唱えるだけで死後の極楽は保証されますか?
唱えただけで悟りを開いたことになるのですか?
唱えても何も変わりませんが、これで救われたと言えるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
南無阿弥陀仏
お念仏の教えについて学ばれているのですね。
お念仏は仏のお悟りですが、それを称える私が今この現生で悟るかどうかはまた別かもしれません。仏のお悟りによって私が明らかになるところに救いがあるのだと私はいただいています。
しかしkei様が救われたと思わないのであればそれが全てです。救われていない、あるいは救われているということを実感できない、という状況かと思います。
「何も変わりません」
とのことですが、何かが変わることをもって救いとする、例えば私たちの身や心が変わることが救いであるならば、それは先のご質問でお答えさせていただいたように「わが身をたのみ、我が心をたのむ」という自力心です。
むしろ縁によってコロコロと変わり続ける何ともウサンクサイこの私がお念仏という「まこと」に出会えたことが救いではないでしょうか。
kei様は色々な仏教用語や解釈をご存知のようですが、それによって混乱しているようにもお見受けします。
普段はどのような聞法をされているのでしょうか?お寺に足を運んで住職さんに一対一で尋ねたり、浄土真宗の一冊の本を何度も何度も読んでみることもよろしいかもしれません。
念仏とは仏を念ずること、すなわち仏の願いを聞くことです。念仏により私がどうなるか、を問題にしているのであれば、それは仏を念じているようで私を念じていることになっているのです。念仏が念私になってしまっている。
仏の願いを法話や本に尋ねながら、実際にお念仏申す生活を送りましょう。
「死後の極楽」という物語からkei様が事実として今、救いを得られるかどうかです。辛抱強く聞き尋ねてみましょう。
南無阿弥陀仏とお唱えされたのですね。
なら大丈夫、極楽浄土を望むなら命が尽きる時に阿弥陀仏がお迎えに来られるでしょう。
本当かどうかは死んでからのお楽しみ。
比叡山で智慧第一と言われた法然上人が言うのですから信じてみる価値はありますよ。
その日が来るまで、この現世でできること、やっておきたいこと、やれるだけやっておきましょうね。
一念ごとに往生を与えられる
念仏は、往生極楽のチケット。
チケットは、一枚あれば充分。
それでも、何回も念仏して、何枚もチケットをゲットしたり、
財布に今日もチケットが入ってるな、チケットを紛失していないなと確認して、うれしくなったりできます。
となえて終わりでなく、、、
仏、阿難に告げたまわく
汝、よくこの語をたもて。
この語をたもてとは即ちこれ無量寿仏の名をたもてとなり。
観無量寿経の一節です。
どうか、念仏いただいたらなら、その語をたもっていただけるとありがたいです。
信じ難い仏行。
こんばんは。
念仏を一度唱えただけで極楽往生が保証されますか?
また、唱えても何も変わりません。
との疑問をお持ちなのですね。
行為に対する対価を確認されたい気持ちはよく理解できます。
事実、私もそのように考えていた時がありました。
ただ見方をを変えると、どんな理由にせよ人生で一度でも念仏を称(とな)える機会に恵まれるということは非常に稀なことです。
世の中の人の多くは人生で一度も念仏を称える事のないのが普通です。
我々の常識からすれば、念仏を称えるだけで悟りを得るとか、救われるなどというのはにわかには信じ難い事ですからね。
しかし不思議な事にこの念仏を称えるという仏行は、時代を超えて様々な国で脈々と伝えられ、現在もこの日本で生きています。
はっきり言えることは、私たち人間にとって不必要なものが、永く続く事はありません。
事実、念仏を称える事で人生を幸せに生きた人が多くおられます。
まずは、なぜ念仏は現在まで受け継がれてきたのか、また念仏によって人生を幸せに生きた人々のエピソードなどご自分で調べてみて下さい。※ネットや書籍に沢山あります。
そこから答えが見つかるかも知れません。
もしそれでも納得がいかないようであれば、それは貴方にとっては念仏は悟りを得る、あるいは救われる法ではないという事です。
別の仏行をお求めになって下さい。