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仏教におけるあの世

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聞きかじりの知識なので正確さを大きく欠いている可能性が御座いますがご了承下さい。

仏教においては輪廻転生が唱えられてはおり、目指すべきは解脱であるため、本来仏教に天国や地獄といったあの世観は存在せず、日本内での布教の際に付随したという話を以前聞きました。

しかしいざ調べてみると、仏教にもあの世観(前世、来世での意味でなく、天国や地獄の意味で)は存在しているという記述を見つけました。

実際に仏教ではどのように考えられているのでしょうか?

また、仏教の成り立ちや変遷について学べる読み物が御座いましたらお教えください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

字数的に書ける範囲で…

まず前提として、『仏教では』という理解には無理があります。仏教は「八万四千の法門という言葉があるほど多種多様ですのでひとくくりでは語れません。

さて、輪廻思想は『仏教以前からインドで定着』しており、ヴァルナ(カースト制度)の論拠でした。「お前ら下々の連中は前世の行いが悪かったから身分が低く、我々は前世の行いが良かったから身分が高い。これは今世の努力ではどうにもできないから逆らうな。せいぜい来世以降で頑張れ」という論法です。これを業報(ごっぽう)輪廻思想と言います。

この論に「それは違う!大切なのは今をどう生きるかどうかだ!」と反論したのがお釈迦さまです。

しかし、お釈迦さまは来世自体には2通りの説き方をしています。出家した僧侶には「来世のことなど議論しても結論はでないのだから、くだらないことを考えていないで修行しろ!」と説き、一般の信者には「誠実に生きなさい。誠実に生きれば今世でも来世でも楽になりますよ」と説いています。

この使い分けは頭ごなしに教えを押し付けるのではなく、まずは自分から相手の目線に合わせ、相手に合わせて教えを説いた「対機説法」と呼ばれる手法です。

ここで、お釈迦さが本当に伝えたかったのは「来世」という部分なのか「誠実に生きなさい」という部分なのか、どちらで取るかで方向性が180度変わってしまいます。

さて、ここから複雑になりますが、とりあえず日本内で付随したというのは大嘘です。むしろインドから東南アジアの南伝仏教のほうがずっと輪廻思想の色が濃いです。かなり早い段階から付随しています。日本では現在、業報輪廻は重大な差別思想と捉え各宗派で僧侶への教育を進めています。

天や地獄の世界観については他宗教との習合していますので、日本の場合は中国文化の影響が強いです。ただしインドではヒンドゥー教、タイでは精霊信仰など、どこの国でも当たり前に習合しています。それが対機説法の一形態ですから自然なことです。そのため習俗として有ると言えばある、本来は無いと言えばないというグレーゾーンと言えるでしょう。

また、対機説法の延長線上に宗派がありますので、結局は「仏教では」ではなく、宗派ごとに場合分けして理解しないと話が泥沼化します。

オススメ入門書
http://hg26.blogspot.jp/2011/01/blog-post_16.html

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

知識・知恵よりも智慧。

人間は腹を立てたり笑ったり暗くなったり悩んだり浮かれたりの無限ループ。
これを六道輪廻という。
この負のサイクルから抜け出す為には、自分のふらついた心をしっかり定めなければいけない。
思いから影響を受けなくなる心を得る事。これが解脱。思いにふらつかなければ自分に振り回されないからです。その為には坐禅して、自分の思いの正体が第一発生時点に於いては自然発生的なものであることを見極める。そうすると二次的な思いはからい、判断分別好き嫌い追加しないで居られるようになるから心がタフになる。
あの世とはアタマの世界のコト。
来世とは1秒後のコト。
過去世とは1秒前のコト。
描かれたあの世やら過去世・来世は後世の人間の誤った想像解釈だからウソッパチ。
極楽・涅槃とは浮かれ状態ではなく、前述の思いに不動なる心。
自分の思いに飼われてこき使われているのが人間。
自分の思いを飼い慣らせばホトケ。
仏教の成り立ち、変遷より自分が仏教のエッセンスを悟れば歴史に用がない事が分かるから言わない。思う所があれば坐禅会にお越しください。
知識を学ぶことは仏教ではありません。
おのれがおのれの思いに乱れぬことが智慧です。
知識や知恵の引き出しを開けてあれこれ詰め込むよりも、智慧・悟りの扉を開いて、何でも入るようになってみませんか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
大変参考になりました。今まで仏教という一括りでしか認知していなかったので、宗派ごとで考えなくてはならないというのは真新しく思えました。
調べているだけでは恐らくそういった考えには辿り着けなかったと思うので、回答していただき大変感謝しております。
自分で知っていると思っていたことがあまりに偏ったものであると痛感致しました。
教えていただいた『ブッダの教え』も読ませていただきます。

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