「苦なるものは無我である」を体験によって伝えるには
いつもお世話になっています。
「分別」 南伝 相応部経部45-8 阿含経典
比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。
比丘たちよ、聖なる弟子たちは、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって、あるがままによく見る。
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
阿含経典の中の「分別」という中に、「苦なるものは無我である」とありますが、どのような体験によってどのように理解すればよろしいでしょうか。
御教示お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ヴィパッサナー瞑想
体験ということなら、戒(五戒)・定(サマタ瞑想)・慧(ヴぃパッサナー瞑想)の三学を実践してみてはどうでしょうか?
たとえば、日本テワラワーダ仏教協会のホームページなどには、ヴィパッサナーのやり方も掲載されていますし、初心者瞑想指導のイベントなども告知されています。
私達生きものの活動は、つまるところ、苦の刺激に反応して動いているのです。
「お昼ご飯を食べよう」と「私が思っている」と思っていますが、
空腹という苦の刺激に心身か付き動かされているだけ。
ご飯を食べたらおいしいなとか思っていますが、それは、空腹の苦しみが和らいだだけ。
食べることは、胃袋に物体を詰め込むことだから、実は、胃袋が弱いパンチを受け続けている。本当は、食べることも苦。
だから、空腹の苦しみと胃袋に物を入れる苦しみの大小で、空腹が勝ってるときは食べたい、胃袋痛が勝っているときは満腹感で食べたくない。
まだ食べたいとかもう食べたくないとかも、「私が」判断しているようで、実は苦しみの刺激に脳みそが右往左往しているだけなのです。
苦なるものは、無我であると知れば苦ではなくなる
諸法無我
無我というのは諸法無我のことです。
全ての物事はそれ単独で存在しているのではなく様々な縁によって存在しているのです。
ですから、苦しみも単独で存在するのではなく、様々な縁によって存在しているということです。
それを体験するとなると、例えば、仕事をしていて辛いなと思っていたのに、お客さんに感謝の言葉を貰うと一瞬でその辛さが吹き飛んでしまった、という事もあろうかと思います。
質問者からのお礼
大悲先生
お回答ありがとうございます。
苦なるものは、我によって苦となると理解させていただきました。
合掌
三宅 聖章 先生
ご回答ありがとうございます。
貴重な体験ありがとうございます。
信心銘を読んで体験と比べてみました。
見ているという「私」がそこにいないから、ただ眼を向けたものがそのままに見える。
「私=自我」というものが介入しなければ、①見えたものには「意味づけする必要も価値づけする必要もない」、ただそのままに受け取っているだけでいい。
もし、眼に「私」が存在するならば、見たくないものは見えないし、見たいものだけが見えるようにするはずだ。それができなということは「眼=私」ではない。
②見たものだけがあるとの認識にいたれば、対象そのものに執着も忌避もついてはいない。見た後とや、聞こえた後にくっつけている。執着や忌避は認識した後で己が作り出している。
③④ただ「私」(=記憶や概念で構築された言葉を駆使した思考)が自己保身(=恐怖)によって審判を下してしまう。感受した時だけ気づく(=意識)だけなのに、過去の「私」、今ここで感受している「私」、未来の「私」が概念と言葉による「思考」を使ってこねくり回すことで迷いを増幅させているだけのこと。頭の中は、寂滅ではなく喧騒となってしまう。
今ここで起こっている一切の現象は刹那刹那で完結している。一切の現象は起こっては完全に消え去っている。「私」などどこにもいない。
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僧璨の著作である「信心銘」での冒頭の句ー
大いなる道は難しくない、①選り好みをしなければよいだけだ。
愛も憎しみもなければ、②すべては明瞭で、隠されたものとてない。
③だが、ほんの僅かな区別でもすれば、天と地は無限に離れる。
だから、真理を見たいと願うなら、いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。
④好きと嫌いの葛藤、これが心の病だ。
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願誉浄史 先生
ご回答ありがとうございます。
初心者にご紹介いただき感謝いたします。
戒(五戒)・定(サマタ瞑想)・慧(ヴぃパッサナー瞑想)の三学を実践してみます。
今後ともご指導お願いいたします。
合掌