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チベット仏教と涅槃、輪廻について

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有り難し有り難し 13

チベット仏教のゲルク派によるともののあり方には2つ有るそうです。

1.自性によって成立しているもの

2.何らかの効果を生み出す能力のあるものとしてのもの。言葉に仮設されたもの。

自性によって成立している物は世俗、涅槃の両方の世界において成立しないとするのがゲルク派の教義の特徴とされています。
また、事物の存在を全面的に否定している訳ではなく、言葉によって仮設された縁起によって成り立つ物として存在しているとされています。
釈尊は悟りを開かれた後も、救済の為に衆生の話に耳を傾け、粥を飲み、説法を説かれるため足を運ぶ
といった事をされている事から、仮設された知識や善悪の価値観、法則、事物は涅槃の世界でも縁起に依るものとして存在する事が分かります。
もし事物が全面的に失うのであれば虚無主義と変わらない事になります。

しかし、それならば一つ重大な欠陥が残ります。
世俗の真理として仮設された輪廻転生はどうして解消されるのでしょうか?
ゲルク派は言説有、つまり自性に基づかない物としての輪廻転生を前提にします。
それらは言説有として仮に存在する物であるから存在を認める事が出来るからです。
であればどうして釈尊は輪廻から脱したと言えるのでしょうか?
もし輪廻転生を世俗の真理だと仮定するなら、釈尊は妄執を消しただけで、
縁起としては今もなお輪廻転生を繰り返していることになります。
縁起によって成り立つ事物は涅槃の世界でも残るからです。

では涅槃に入る事で仮設された真理も消えるとします。
それならば何故衆生を救う必要が有るのでしょうか?
自己が輪廻転生を繰り返す妄執が消えたのに、どうして他者が輪廻転生を繰り返すという妄執は残っているのでしょうか?
涅槃の世界に輪廻転生を繰り返す事物は存在しない筈です。
また、そもそも世俗真理としても否定されるという事は
すなわち科学的認識、日常感覚としての「無い」と同じですから、我々も輪廻転生から脱する必要すら無くなります。
ここのサイトが「神父さんがこたえるQ&Aサイト」ではないのと同じように。

大上段から釈尊を否定する書き方をしましたが、私は今の自分の考えを必ず正しいとは思っていませんし
お坊様方から間違いを指摘して下さる事を通じて学ばせて頂きたいと思っておりますので何卒宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「ご覧にならない仕方でご覧になる」

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お久しぶりでございます。変わらずにチベット仏教を考究なさられておられますこと、誠に有り難いことでございます。

一切は、自性の無い空にして縁起であるからこそ、輪廻から涅槃までのありようの縁起も一貫的に設定できるとするのが基本となります。

輪廻についても、涅槃へと至る過程の縁起として認められるところとなります。

そして、その在り方は、認識論的にも考えていく必要があります。

ぶっちゃけて先に言ってしまえば、如来・仏陀の認識論的には、輪廻世界(空と縁起の世界)もご覧になられるのであります。しかし、その認識方法は、「ご覧にならない仕方でご覧になる」として、空性了解の直観智において、私たち凡夫の観方とは全く異なる次元のものとなります。

如来・仏陀は、直観智で認識なさられながらに、衆生の輪廻の縁起のありようもご覧になられるところとなります。そして、大悲の御心を起こされて、報身や応身にて、衆生をお救いなさられるおはたらきをなさられるのであります。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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ロウソクの火が消える

チベット仏教のことはわかりませんが、基本的に、涅槃は、煩悩の火が吹き消された状態です。
燃料が無くなれば火が消える。
煩悩がなくなれば、輪廻転生が終わる。
ブッダは入滅して無余涅槃に入られました。
経典では、ブッダが涅槃に入ったら、神々でさえも、もうブッダをみつけることはできないと言われています。

煩悩が残っている者は、三界(欲界・色界・無色界)のどこかにいつづけます。
六道輪廻は、欲界の生き物を六種類に分類している。六種類のどれかに生まれかわる。
欲界よりレベルの高い色界・無色界もある。
欲にとらわれないが物質(肉体)はある色界の生き物、さらには物質(肉体)から解放されている無色界の生き物(肉体はないが心はある)、それらは梵天と呼ばれる、神様みたいな生き物です。
無余涅槃は、それら三界からいなくなるのですから、梵天の神々でも入滅したブッダをみつけられないのです。

紙の書物に書いている内容を、別の紙に書き写したり、パソコン内にデータ化して記録したりはできます。
書物だった紙や、パソコンを、燃やしたりリサイクルしたりはできます。
しかし、書物に書かれていた小説や、データ化されていた小説を削除したら、誰も二度その小説を読めなくなります。
小説の最後のページに、「これで完結です。これを呼んだ人はこの小説を焼き捨ててください。」と書かれていれば、小説を抹消できます。
ブッダは、それに成功したのです。
三界から解脱し、その小説を誰も二度と読めない(紙媒体でも電子媒体でも)状態にすることに成功したのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

回答して下さり有難うございます。
これからも僅かばかりでも釈尊の教えにあずかるように精進させて頂きます

「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

有り難し有り難し 9
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ