hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

気にしないようになれる心構えが知りたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 8


初めて質問させていただきます。(質問投稿中にログアウトになってしまったのでもしかしたら重複しているかもしれません。ごめんなさい)

私はこの度友人といざこざをおこし、2対1となる形で友人と疎遠になりました。
その人はグループ学習の中で、厳しい口調の喧嘩腰で(本人にそのつもりはなかったらしいですが…)批判をするだけで代案をその場で出さず、所謂「評論家様」になり話し合いの空気を気まずいものにしていました。私はグループのリーダー役を正直不本意ながらやっていたので、皆が怖がっていると伝えたら「お前らの根拠の無い論を聞いているとイライラする」と言い、その後私個人への罵倒を残しその後疎遠になりました。そして、そのあと自分のずっと出さずにいたらしい案をおいてグループを抜けていきました。
罵倒のことはさして気にしていませんし、なかなか案が出ずに話し合いが進まなかったのは申し訳ないとは思いますが、どうしてもこちらばかりの非であるとは思えないのです。
直接いざこざに関わっていないもう一人も、もともとそちらの子との仲がよかったので自然と自分とも疎遠になりました。

こうなる前から、家庭環境や所属している団体などの違いから話題が少し合わなかったり、会話の節々からこちらにも向けられているような軽い皮肉もしょっちゅうあったので、こうして疎遠になったこと自体は個人的にはいい機会だったのかなと思っています。そのせいか、自分から積極的に仲直りをしようと気持ちは起きません。先に離れた席に座り始めたのもあちらですし、何か行動を起こす気には今はまだなれません。
一度近くに座ってきてその時私がいた別の友人に話しかけていました。ですが私は黙るので結果私が仲間はずれのような状態になったり(故意的だったかは不明ですが、成人にもなってそんなやり方は流石にないと思うので)やはり誰かと疎遠な関係になると気まずいなあと思うことがしばしばあります。
もともと陰口や愚痴が多い人たちだったので好き放題言われているんだろうなあとも思ってしまい、少し気が滅入ってしまいます。

一体どういう気持ちの持ち方をすれば、こういった微妙な距離感や微妙な接触に対して不愉快な気持ちにならずに済むでしょうか?それともこういったもやもやした気持ちも、やはり時間が解決するのを待つのが一番なのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の立場を捨てて接しなければ友人ではない

あなたは多分、自分のお立場論を強くお持ちでいらっしゃると思います。
あなたのご友人の誰かが、常に自分の肩書き越しのお話をされたら子供時代のように仲良くはできませんよね。
お釈迦様という方は「万人の友」になれる方です。
仏心を得るというのは万人の人と相和せるという事です。
利益や優劣が発生するわけでもないのでしょうから、そういったおかまえ事をなくすのです。
「ただの人」になるのです。
あなたがただの人になれれば、誰とでもあい和せます。
それが日本の和の精神であり、仏教の精神であり、ただの人の精神なのです。
所属している団体も一旦忘れて、その中にあってもただの人であれば部署やお立場を超えてお偉いさんとも肩書き抜きの話し合いができます。
手を合わせても合わせずとも良いです。
そういう心があなたに元々あったんだ、ということを思い出してみましょう。
丹下でした。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

「ただの人」になるとは考えたことのない発想でした…。少し気が楽になりました。

すぐにただの人になるには難しいとは思いますが、少しずつ頑張ります。ありがとうございました!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ