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母親に暴力を振るってしまいます

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昨日、母親に暴力をふるってしまいました。
紙袋を母の背中になげてしまいました。
中にビンが入ってることを知らず投げてしまい母はその場で倒れて苦しみ出しました。
ほんの些細な口論で不安やストレスが爆発して我を忘れて目の前の家族、特に母親に暴力や物に当たってしまいます。
今回の場合母の肋骨にヒビが入ってしまいました。
母は僕が幼少期の頃よく自分たちを躾としてたたいていました。
その反動なのか分かりませんが自分も母親にイラッとすると母親に暴力を振るってしまいます
最初は胸ぐらを掴むから叩く、突き飛ばすそして今回は肋骨にヒビを入れてしまいました
弟が警察にいこうと言ってましたが母が「息子を警察に売ることはできん」と言われて我に返り、自分のしたことの重大さがわかり母に土下座をして泣きながら謝りました。
その後、学校へ行く時にふと母との思い出が甦ってきました。
どんなことをしても最後には許してくれて、自分のために一生懸命してくれた母に自分はなんてことをしたのだろうと罪悪感がいっぱいです。
母に許してもらうために贖罪というかヒビが治るまで家事をすると言いましたが聞き入れてもらえず、他人にしない、これから2度としないなら許すと言ってくれた母
でも自分なりのケジメをつけたい。普段は言えない母を愛してる事を伝えたい。
でも母はそれを許してくれてくれません。どうすればいいのでしょう?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こぴぺぷり

あなたの質問と僧侶たちの回答をそのまま、コピー、ペースト、プリントアウトしてお母さんにそのままお渡ししてください。
そのままコピペして紙にして伝えることが一番イイです。
なんちゅう答えだとお思いになられたかと思いますが、これが絶対に一番イイと思います。
なぜかといいますと、あなたとお母さんとはついつい感情論になってお話にならない。
多分、ウマく謝ろうにもあなたはプライドが強いからすぐカッとなって「あの時は母さんだって〇〇したじゃないか」とか言うと思います。
会話にならんとついつい言葉ではなく手が出る足が出る。ビンが飛ぶ。
あなたがウマく伝えようとしてもお母さまの推測言葉が先に出てきてしまってお話にならないことが良くありませんか?
本当はそうではないのに、お母さまの捉え方がちょっとだけズレていたり、
このあなたのご質問はこのhasunoha始まって以来の最高の謝罪文です。
私のいうことを信じてください。
このままPCのネットを通じてコピペプリしてください。(コピーペーストプリントアウトの意)
恥ずかしいとか言ってられません。
生みの親のろっ骨を折るなど言語道断、言い訳無用。
だからと言って謝るにしてもまたしても感情論では誠意が伝わらない。
またあなたはやるかもしれないから、謝罪の証しとしてこちらをそのままお渡ししつつ、ことのいきさつを話して、今後の行為を未然に防ぐためのお札として親御さんに私の文も掲載コピペして、今後仲良くなさい。手を出したり検査さえしなければいい親子なんだから、それが今後あなた方親子の仲良しの絆にもなる。
お母さん、ご覧いただけましたか?
彼は、今後もうお母さんに手を挙げたりしませんと約束するそうなので、今回はどうか赦してあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

距離を置きなさい

ゴイケさん、はじめまして。

お母さまに暴力を振るってしまい、後悔しているのですね。

文面から拝察すると、今回が初めてではありませんね。ゴイケさんは、自分のことでうまく行かないと人や物に当たってしまうようですね。

まずはお母さまと距離を置きなさい。今のままでは、何度も同じことを繰り返します。お母さまも、ゴイケさんも辛いことですが我慢してください。

その上で、ゴイケさんの中にある怒りの本質を探してください。誰かに聞いても分かりません。

心を空っぽにできたとき、ゴイケさんの問題は解決に向かうでしょう。
これを仏教では、空と説きます。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

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