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お坊さん

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有り難し有り難し 87

お坊さん方は、見たり会ったりしただけで、この人は苦しんでいるかいないか分かりますか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

分かりません。

自分ですらもあやしいですが、他人の心は分からないのです。

なので、たとえ表情がさえないとか、あるいは底抜けに明るいとか、見た目の情報から得られる要素があったとしても、それをもって「わかったつもり」になってしまうことが一番危ういと思います。

分からないからこそ、まずは敬意をもって出会っていきたいものです。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

分かります

…とあえて言ってみます。
お金が無ければ無いなりに苦しみ、有れば有ったなりに苦しむ。それが人情というものです。みんな何かしら苦しんでいるんです。たとえ本人に自覚症状が無かったとしても。

でも、世間では「私はああいう人よりはずっと軽いのだから、苦しいなんて思ってはいけない。」そうやって自分の苦しみも他人の苦しみも圧し殺してしまいがちです。

お寺やお坊さんという存在は、どんな苦しみでもそのように圧し殺さないでいい空間であるべきだと私は考えています。
他人と比較しなくていい。他人に遠慮しなくていい。ありままの自分と向き合える場でありたいですし、皆さんにも遠慮せずどんな悩みでも投稿していただきたいと思います。

ただ、何にどう苦しんでいるかを見たり会ったりしただけで分かるわけではありませんよ。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

なんとなくわかります

なんとなくにじみ出てるもんです。
本当に大丈夫な人は大丈夫な感じがでています。
作って明るくしている人は作っている感じが出ています。
みんな同じ四苦八苦を抱えているのですから、毎日気分だって変わるものでしょう。
だからこそ、根底から四苦八苦を解決しませんと心底決着がつきませんよ。

人間は頭で眺める生き物です。
頭の中で思考、想念、情報の嵐が吹いています。
そういう事から自由になれるのが仏教の救いです。
ぜひ、救いを求めてください。
ちゃんとした教えがあります。

あらゆる思いはみな一念にすぎない。
煩悩も苦しみもみな一念である。
覚者はその一念の本質を見抜く。
そしてその本質を明らめせしむる。
一念いずこより来たりいずこにか去らん。
一念の起こるところを覚せよ。
事実と一念はこれ別ものなり。
事実に一念は伴わず、一念はみな想念なり。
想念に姿かたち無し。
姿カタチ無きものを真実とするべからず。
真実は想念、一念を離れし処にあり。
あると言えど、とどめることあたわず。
念をもって識することあたわず。
身心に今まさにあらわれ覚知されるものに念の伴いのなきことを子細に見るべし。看るべし。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

表に出さないように隠していれば、分からないと思います。

でも、
「苦」を一つも持っていない人は
いないんじゃないでしょうか。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

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