回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
分かりません。
自分ですらもあやしいですが、他人の心は分からないのです。
なので、たとえ表情がさえないとか、あるいは底抜けに明るいとか、見た目の情報から得られる要素があったとしても、それをもって「わかったつもり」になってしまうことが一番危ういと思います。
分からないからこそ、まずは敬意をもって出会っていきたいものです。
なんとなくわかります
なんとなくにじみ出てるもんです。
本当に大丈夫な人は大丈夫な感じがでています。
作って明るくしている人は作っている感じが出ています。
みんな同じ四苦八苦を抱えているのですから、毎日気分だって変わるものでしょう。
だからこそ、根底から四苦八苦を解決しませんと心底決着がつきませんよ。
人間は頭で眺める生き物です。
頭の中で思考、想念、情報の嵐が吹いています。
そういう事から自由になれるのが仏教の救いです。
ぜひ、救いを求めてください。
ちゃんとした教えがあります。
あらゆる思いはみな一念にすぎない。
煩悩も苦しみもみな一念である。
覚者はその一念の本質を見抜く。
そしてその本質を明らめせしむる。
一念いずこより来たりいずこにか去らん。
一念の起こるところを覚せよ。
事実と一念はこれ別ものなり。
事実に一念は伴わず、一念はみな想念なり。
想念に姿かたち無し。
姿カタチ無きものを真実とするべからず。
真実は想念、一念を離れし処にあり。
あると言えど、とどめることあたわず。
念をもって識することあたわず。
身心に今まさにあらわれ覚知されるものに念の伴いのなきことを子細に見るべし。看るべし。
分かります
…とあえて言ってみます。
お金が無ければ無いなりに苦しみ、有れば有ったなりに苦しむ。それが人情というものです。みんな何かしら苦しんでいるんです。たとえ本人に自覚症状が無かったとしても。
でも、世間では「私はああいう人よりはずっと軽いのだから、苦しいなんて思ってはいけない。」そうやって自分の苦しみも他人の苦しみも圧し殺してしまいがちです。
お寺やお坊さんという存在は、どんな苦しみでもそのように圧し殺さないでいい空間であるべきだと私は考えています。
他人と比較しなくていい。他人に遠慮しなくていい。ありままの自分と向き合える場でありたいですし、皆さんにも遠慮せずどんな悩みでも投稿していただきたいと思います。
ただ、何にどう苦しんでいるかを見たり会ったりしただけで分かるわけではありませんよ。