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仏教を学んでも人格者たり得ない私。人格育成する良い方法は?

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ご質問させて頂きます、ハルソラと申します。

タイトル通り、仏教を学んでも人格者たり得ず、浅はかな自分に嫌気すらさしてしまいます。

私のしている仏教の学びとは、巡礼(四国や各観音霊場巡り)、市販の仏教書、座禅、説法会や座禅会の参加など4〜5年ほどです。

仏教では「慈悲の心(思いやり)」を大切にしますが、その慈悲を他者に向けることが、私にとって難題となっており、些細な事から人間関係のトラブル、軋轢が生じることがあります。

どうして慈悲の心を持つ事が出来ないのだろうと自分なりに考えてみますと、まず自分の人生に感じる圧倒的な不幸感です。

私の親は冷淡で、愛情深い親ではありませんでした。その事で何十年と悩みましたし(自身の存在意義も含めて)社会に出てもうつ病、非正規雇用を転々、一生懸命やったスポーツもうまくいかない等ありました。
しかし衣食住に不自由はないので贅沢な悩みかもしれません。

さらに一般社会においては会社でも、路上でもマナーやモラルのない人を目にする事が多く、そのような人達に差別意識を持ってしまっているのです。

そのため人に何かをしてやりたい精神があまり養われないようです。

説法会や座禅会で、お坊さんと触れ合う機会も増え(しかしいつも気軽に話せる訳ではない)そのような方々の話しや態度をみて見習いたいと思いつつ、すぐに忘れてしまいます。

私が「慈悲の心」を身に付けたいのは、自他の救いのためです(どちらかと言うと自分。←これがダメなんですかね?)

どうしたら心から他者をいたわり、慈しむ事が出来るのでしょう?
ご教授よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

昨日よりも今日のほうが自分の至らなさに気づかされる。

こんばんは。亀山純史と申します。

昔のことですが、ラジオを聞いていたら、「いつ自分は大人になったと感じましたか?」という質問に、ある方が「まだまだ自分は子どもだな、と思った時ですかね。」という答えをしていました。
自分を磨こうと様々なことをしてきても、「まだまだ自分はダメだな。」と思いながら、実は少しずつ、相手を思いやる心が育てられていることと思います。仏法は聞けば聞くほど、自分のダメさ加減が浮き彫りにされてくるものです。それは「自己への気づき」です。昨日よりも今日のほうが立派な人間になるのではなく、昨日よりも今日のほうが自分の至らなさに気づかされるのが、「仏教を学ぶ」ということです。そして、「本当に自分はダメだ。」と感じることは、裏返せば、今まで気づかなかった相手への思いやりの心が育てられていることを意味していることでしょう。
仏教は一生学び続けていく教えです。これからも、様々な仏縁を大切になさってください。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

菩提心がない

流行りのマインドフルネスで説明しましょう。
グーグルやインテルでも取り入れているそうですが、そのうち軍事産業にも取り入れられたとします。
瞑想によってイノベーション。
( ゚Д゚)キラーン✨
「OH,マインドフルネスによって、大量殺人兵器を考案しました。」
( ゚Д゚)キラーン✨
「OH,マインドフルネスによって、気象兵器・人工地震兵器を開発しました。」
こんな感じになったらマインドフルネスも、坐禅も悪用されてしまうのです。
根底に菩提心がない。
人の世を心底良くあらしめんという思いがない人は仏教をやっても自分の為、人間の都合が優先されてしまうのです。
人間にはオレオレした自分マインド、わたくしアプリが自己の上に起動しない時があるのです。もともとこの身心の上に「わたしが、おれが、自分が」というわたくしアプリは起動していません。起動していないからこそ困っている人がいたら助けてあげられるし、火事があったら通報もしてあげられます。
禅を学ぶにしてもモノになる人ならん人がいます。
それは何だろうと思ってきましたが、ひとえに菩提心があるかどうかなのです。
自分の為にやるんじゃないんです。
自分自分したもんが常に優先されている人は坊さんであっても、いつまでたっても目立ちたがり屋さん。自分の為にやっている。
それは当然、慈悲ではなく智慧もでもなく自我・我欲。仏教的な「できる系スキル」を振り回しているだけなのです。
お困りの要点は、自分が自分がという気持ちなのだろうと思います。
そこを問題にしてみてください。
本当の無我とは、この身心にわたし・わたくしが生じていない時の様子。
私が立たない時は当然、好き嫌いも、良い悪いも。都合も何も生まれません。
だから、無我・無私を明らかにする必要があるのです。
無我になるには簡単です。
般若とも言いますが、自分が自分でやっていないことに学ぶのです。
文字数の関係でこの辺で。
心底志す気持ちが沸いたらお寺にどうぞ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これからの人生で

拝読させて頂きました。
自分を大切にすること。自分が毎日を健康に心穏やかに幸せに生きていくことができるようにと心がけていくことかと思います。
それにはやはり周りの人達とのご縁も大切になさっていくことかと思います。それにより自分をより大切に感じることができると思います。
同様に自分を大切にするように周りの人達を我が身のことのように大切にしていくことでしょうね。

あなたがこれから心穏やかに豊かに皆さんと一緒にお互いを尊重しあいながら日々充実して生き抜いていかれますようにと心よりお祈り申し上げます。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

自分の煩悩をスキャンする

慈しみの心と怒りの心は、同時には起動しないそうです。
怒っている1秒間があるとしたら、その1秒間は慈しみが停止してしまうのです。
怒りなどの、自分の煩悩に気付くのが重要だと思います。
私のおすすめは、「欲・怒り・怠け・プライド」と言葉で念じて、今の自分の感情の中に欲・怒り・怠け・プライドといった煩悩が混ざっていないか確認する、煩悩をスキャンすることです。
慈悲の心を忘れているときは、欲・怒り・怠け・プライドのどれか一つ、あるいは複数が生じています。
例えば、街で他人に肩がぶつかったときに、「いてーなテメエ」とむかつくときは「怒り」。その瞬間に相手を殴っているかもしれません。
しかし、そこからさらに殴り続ける場合は、今度は怒りではなく欲の煩悩、「もう一発殴りたい」「さらにもう一発」と、殴ることに快感が出てくるのです。そのときは、怒りよりも欲で殴っているのかもしれません。
相手への怒りだけなら、すぐに気がすみますが、欲となると、もう相手を懲らしめたとか関係なくなるので、危険です。
世の中のいじめや体罰も、単なるケンカや懲罰ではなく、「欲」にギアチェンジして歯止めがなくなるのかもしれません。
怠けやプライドも、怒りにつながるので慈悲の妨げになりえますね。
「欲・怒り・怠け・プライド」は自分自身の悩み苦しみ・ストレスにつながります。
慈悲を育て、煩悩に素早く気付けるようになれば、平安な人生になると思います。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

「四無量心」

ハルソラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生もとても人格者などと申せるものではありません。。

そんな中でも、「慈悲」をいかに養っていくべきか・・

最初は形だけからだけで全く構いません。それを徐々に信解(心の底からそう信じられるようになる)していくことで、いずれは自然にそうなるように調えていければよいという感じにて。

拙生も毎日の行の中における、「四無量心」の偈頌を読むことを欠かさずに調えることから努めております。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

亀山純史さまのご回答を拝読させて頂きました。

まったく想像もしなかった、まるでコペルニクス的転回のような亀山さまの教えに、こんな自分でも成長していたのか!?と驚きと感動すら覚えました。

>昨日よりも今日のほうが自分の至らなさに気づかされるのが、「仏教を学ぶ」ということです。

素晴らしいお言葉ですね。これからも仏教を学ぶという事を大切にしていきたいと思います。

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