回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
子供さんにお答えしました。
子供さんからの同じような質問がありました。こんな風に答えました。
回向(えこう)とは、自分がお唱え(心で念じた)したお題目やお経などが、ご本尊様に届きます。そのすべては、自分の元へと戻ってきます。そのすべてが亡き方に届けられます。届けられたことの功徳で、亡き方も自分自身も救われていきます。功徳が巡ります(廻ります)
ゆえに、自分自身が祈ることは大切なことです。
サンスクリット語ではpariṇāma
回向(廻向)は、サンスクリット語pariṇāma(パリナーマ)を漢訳(昔の中国語に翻訳、漢字で意味を表した)した言葉です。
なお、パリナーマの漢訳語には、「回向エコウ」のほかにもう一つ、「転変」という言葉もあります。
「回向」と「転変」はどちらも仏教用語ですが、日本仏教では、「回向」と「転変」は少し違う意味で使われています。
しかし、私個人的には、「回向」と「転変」の言葉のルーツが同じであるとしたら、それは府に落ちる部分もあります。
「回向」は、功徳(善い行いをしたことや、善い行いの効果、善のカルマ)を、何かの目的や他者のために回し向けることです。
たとえば、お経を読んだ功徳をご先祖様の来世での幸せのために回向する、とか。
また、念仏をした功徳を、自分や他人の往生極楽のために回向する、とか言います。
一方「転変」は、唯識思想という仏教哲学の中で使われる言葉です。
すべては識、つまり心からできている。
その識が過去の識の影響で次の(未来の)識に変化していく、識が変化していくのを「転変」と言うようです。
私もあなたもご先祖様も仏様も、みんな「識」(心)、深層心理でつながっているとしたら、私が善いことをした功徳や、仏様の功徳を誰かに回し向けることも可能なのかもしれません。
生きとし生けるものの「識」の転変は、目に見えないけれど、自分だけじゃなく他者の「識」の影響も受けることができるのかもしれません。
なお 、回答僧でもある藤本晃師が「功徳はなぜ廻向できるの」という著書を書いておられます。
「普回向」
めぐまりも様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「回向」には、「普回向」というものが代表的にございますが、
普回向
「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」
十の善い行い(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)に励む功徳、喜捨・布施する功徳、お経を読む功徳、真言・念仏・題目をお唱えする功徳、写経・写仏する功徳、仏様にお供え物をする功徳、塔婆を立てる功徳など、仏事の功徳から、日常の少しの親切や気遣いでできる功徳、苦しんでいる者、困っている者、悩んでいる者を救うための功徳など、それらの功徳を、普く一切衆生へと回り向かわせて、皆が共に悟り・涅槃へと至れるための、ほんの少しでも力となりますように、として行なうことが大切なものとなります。
積みました功徳は、できましたら、一切衆生たちのために、として上記の「普回向」を唱えて、及ぼせられるように調えて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
願誉様、鈴木様、ご回答ありがとうございます。
「廻る思い」と捉えれました。全てのものがひとつの輪なんだなぁと。
今は亡き人への思いや、神仏への思い…自分の為に祈ったり手を合わせるだけでなく、全ての人の為に祈れるようになりたいです。
ありがとうございました