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言葉について

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有り難し有り難し 15

恁麼の道理なるゆえに、尽地にて万象百草にあり
の、意味を子供にわかるようにせつめいするには適切な言葉はありますか?
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己(あなた)のたった今の真実相

これは「そこ」だけでは意味不明でしょう。
まず原文から行きましょか。
道元『正法眼蔵 有時』
古仏いわく、有時高高峯頂立、有時深深海底行、有時三頭八臂、有時丈六八尺、有時挂杖払子、有時露柱燈籠、有時張三李四、有時大地虚空。
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。
丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。
いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。去来の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず。
疑著せざれども、しれるにあらず。
衆生もとよりしらざる毎物毎事を疑著すること一定せざるがゆゑに、疑著する前程、かならずしもいまの疑著に符合することなし。
ただ疑著しばらく時なるのみなり。われを排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭頭物物を時時なりと所見すべし。
物物の相礙せざるは、時時の相礙せざるがごとし。
このゆゑに、同時発心あり、同心発時なり。
および修行成道もかくのごとし。
われを排列して、われこれをみるなり。自己の時なる道理それかくのごとし。

からの

【恁麼の道理なるゆゑに、尽地に万象百草あり、】一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。かくのごとくの往来は修行の発足なり。到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり、会象不会象なり、会草不会草なり。正当恁麼時のみなるがゆゑに、有時みな尽時なり、有草有象ともに時なり。

よって、
子供にでも、うちで飼ってるネコでも、一本足りんアホの凡下にでもわかるように説けば、
A「今のあなたのディスプレイに今映し出されていることが、今のあなたなの。」
Q「でも、前のが消えちゃったらどうするの?」
A「消えてないでしょ?次のものがちゃーんと映し出されているでしょ?」
Q「あ。」
A「ママが笑ったらあなたの中のママが笑う。ママが怒ったらあなたの中に映し出されているママが怒るでしょ。それが私たち人間っていうものなの。」
Q「コロコロ変わってるね。」
A「だから心っていうのよ。怒ってるママと笑ってるママとどっちがいい?」
Q「笑ってるママ。」
A「それじゃ、笑っている内に学校行きなさい。」
Q「はーい。」
A「今何が映ってる?」
Q「庭の草。」
こうして少年は、自己の正体、今という事が明らかになった。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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