煩悩
煩悩がいかによくないことであるかは解ったのですが、人生苦しむことなく、つまり、煩悩が芽生えることなく、膨張することなく、上手に生きていくひとたちは、多く居るものですか?
そういうひとたちばかりであるなら、煩悩だらけであった自分が恥ずかしくて、情けないです。
それとも私と同じように、だれだって成長するにつれて、煩悩も増えていってしまうものですか?
私は、仏教を知るまでは、煩悩だということに気づくことが出来ませんでした。それがとても情けないような気がしました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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煩悩成就
煩悩の大元は「無明(むみょう)-根本的無知」であり、これにもとづき、「これが私である」とか「これが私のものである」という執着、つまりは自我意識が芽生えます。
しかしこの自我意識がないと社会生活はままなりませんし、これは親と自分を比べて分けて認識していくという成長における必要過程ですから、これが芽生えることもない人というのは多くいるものではないでしょう。
なつさんは仏教により煩悩を煩悩と知り、恥ずかしくて、情けないお気持ちになったとのことですが、では、恥ずかしさも情けなさも感じ得ないままで根本的無知にもとづき迷っていたこれまでの生活ははたしてどうだったのでしょうか?
知らない方が幸せなこともあると俗に言いますが、知っているものからすると知らないのは空しい在り方です。
たとえ恥ずかしく、情けなく、辛く、苦しくとも、真実に気づいた在り方にこそ空しさを超える本当の満足が開かれてくるのではないでしょうか?
煩悩はたしかに苦しみの元ではありますが、煩悩があるからこそ私たちは仏様に出会えます。煩悩こそが私と仏様の橋渡しです。
煩悩をなくせると思うのも煩悩
煩悩をなくそうともがくのも煩悩
煩悩を知らないのも煩悩
どこまでいっても煩悩成就
煩悩の身を引き受けて、煩悩を活かす道を。それが仏様の教えに我が身の事実を照らされて歩む仏道です。煩悩の身を楽しんで生きましょう。
楽じゃなくとも、楽しく生きる志
成長するにつれて、意識や感情といった存在自体に逆らえないことを認識していくものです。
煩悩が制御されるのではなく、煩悩を出さないように律する志を持っていくのです。
高齢になるに連れて、身体が思うように動かないなど、色々な条件をもって人を苦しめます。この説明では、四苦八苦の「老」に値します。
どんな状況においても煩悩は発揮されます。しかし、煩悩をわたしは一つの「希望」としています。煩悩の次に来るのが欲です。そして、その欲こそが「あ〜したい。こ〜したい」と、目標や夢なる希望が芽生えます。
人間の根元にあります六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を成長していく上で、多くを経験体験することで、必然に煩悩が制御されていくものです。(戒・律)
煩悩を持つことは人間の資格です。そして煩悩を持てることは希望を生みだす唯一の生き物です。
わたしたち僧侶は我修行を積みながら、他人に安心を与えれるように志をもっていきる大乗仏教です。これを仏教では「自利利他」となり、相互礼拝の関係を築くことができることを「自利利他円満」と称します。
他人に施す煩悩を志すことで、煩悩が大切に感じれるようになっていくと思います。
合掌
大樹を育てるには雑草も生えます。
煩悩があるから、人間は成長するのです。
煩悩が悪い訳ではありません。適度な調整出来ないので苦しみになります。
煩悩は雑草と同じで、大地(肉体)があれば、栄養や水があればどんどんと成長します。と同時に、自分が志す大きな夢も、大樹として成長できます。雑草も生えない地では、大樹も育たないでしょう。ゆえに、雑草を刈り取ればいいのです。
そういう私は、雑草だらけです。
煩悩がある。だけど仏教がある。
煩悩は、程度の差はあれど、誰にでもあります。
煩悩は悩み苦しみの原因です。
煩悩まみれの私達は、悩み苦しみの連続です。
でも、大丈夫。
そんな私達を救うための教えが仏教です。
仏教には、悩み苦しみを減らす智慧があります。