お寺には所属するもの?
所属寺を持たないといけませんか?
私の亡き祖父母、日蓮正宗。父母はノンポリ。私だけ真宗シンパだが正式に門徒かと言われると?です(築地本願寺護持会員ですが)。野良門徒です。築地または家からは遠い法話に熱心なお寺で聴聞しています。が、どのお寺に所属すべきなのかいまいち悩んでいます。近所の寺は門徒をこれ以上増やしたくないとのことですし。
再発するかもしれないがん。実母との不仲というか、音信不通。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
個人の自由ではありますが…
所属してもしなくてもよいと思います。
個人的にはもちろん所属してもらえたら有難いですが、お寺によっては諸事情から「門徒をこれ以上増やしたくない」というところもあるのでしょうね…。
今の時代、仏法を求める形式は様々にあり、昔ながらの寺檀制度によらなくとも教えに触れることは可能なのでしょう。そのあたりのことは「彼岸寺」さんの下記の記事にまとまっているでしょうか…(まとまっているというほど短い記事ではありませんが)
「Post-religionとこれからの日本仏教 」
https://higan.net/hijiri/2018/05/buddhism_path/
しかし、本来どうであるかという問題ではなく、現実としてどうなのかというと、仏教が身に染みてくるご縁として「死」-「葬儀」はけして小さな問題ではないでしょう。むしろやはりここから離れられないのでは?とも感じます。
そういう意味で所属寺-葬儀をどのお寺にお願いするか―ということはやはり大きいと思います。(これも時代の流れで変わるのかもしれませんが)
そして、お寺がお寺として存在し継続するためには、所属いただいている皆様の年会費や護持会費がはたす役割は非常に大きいです。だからこそお寺はそこを聞法の道場としなければ、ますますその意義が薄まっていくばかりなのですが…。
お寺に限らず何らかの組織に所属するというのは金銭面や労働(役割)負担の面で煩わしく嫌われる傾向にあるとは思いますが、その煩わしさを引き受けていただいている誰かの手でその場所が継続されていることには目を向けるべきでしょう。
それぞれができる範囲で負担し合えるバランスが求められますね。
「所属寺を持たないといけませんか? 」
←はて、何がどういけないのでしょうか?
「現世で覚りに至れない」という意味でしたら、やはり禅宗などのお坊さんに弟子入りして修行しないといけないと思います。浄土宗や浄土真宗では覚りに至るのはこの世での命が終わった後のことですからね。
「成仏できない」という意味でしたら、自ら信じる仏道に専念すればどの道であってもいつかは辿り着くと法華経に説かれていますから安心してください。
また、法然上人は言われました。阿弥陀仏のお力で、念仏するだけで誰でも浄土に往生し覚りに至ることができると。
「仏様に怒られる?」という意味でしたら、そのようなことはありませんから安心してください。
何事も縁ですから、所属しようと思うお寺があれば所属したら良いし、無ければ無理に所属しなくてもいいでしょう。
所属するかどうかで往生が決まるのでは無く、(浄土宗としては)念仏を唱えるかどうかで往生が決まる、というのが法然上人の教えですからね。
南無阿弥陀仏
檀家はお寺の株主みたいなもの
お寺はたいていが宗教法人なので、組織の重要な決定事項(役員の変更など)は、檀家総会で議決する必要があります。
また、お寺の不動産など財産処分のときは、檀家などに公告する必要もあります。
檀家になる場合は、そのような役割を担う面もあります。
多くの檀家は、お寺の墓地や納骨堂を使用するなど、物理的な関係者となっています。
檀家は、お寺の株主みたいなものです。(利益の配当はありませんが、ご利益はあります。)
そのような檀家になるのでなければ、特段「お寺に所属」を意識しなくても良いと思います。
質問者からのお礼
先生方、ご回答有り難うございました。これはやはり縁、ですね。聴聞させて頂いていたお寺の門徒となることになりました。