人を選んで付き合う
幸せな人たちは、人を選んで付き合うと言います。
しかしこれって、良いことなんでしょうか?
それは、自分は幸せになるでしょう。
しかし、全員を救う仏様の考え方に反するんじゃないですか?
自分の都合のいい人とだけ付き合うべきですか?
それとも、少々我慢して癖のある人とも付き合うべきですか?
こんにちは。 よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
結局、嫌な人とは付き合えなくなります。
私も人間ですから、
好き嫌いや損得で物事を判断します。
善し悪しと言っても、
それは私の判断であって絶対正しいとは言えません。
また、
全てを救うのは仏さまであって、
我々人間ではありません。
仏さまのお手伝いは出来るかもしれませんが、
自分が救っているなどと勘違いしてはなりません、
どのような人と出会うかは御縁、
その人と付き合い続けられるかも御縁、
そう思っていきませんか?
良いことだと思います。そうやって一人一人が幸せになるなら、結果的に全員が幸せになるということですから。
しかし現実は仕事など色々なしがらみの中で嫌いな人とも付き合わなければならないのですけどね。
それに、イエスマンばかりと付き合えば、誰も自分の過ちを指摘してくれず、結果的に大きな過ちを犯してしまい、苦しむことになる、ということもありますからね。
結局は人付き合いというものは、臨機応変に対応するしかないのでしょうね。
厭離一切顛倒
般若心経の一節に「遠離一切顛倒」という部分があります。「一切の顛倒(てんどう)から遠離(おんり)する」と読み下せば、何となくわかると思います。「すべての間違った考えから、離れる」という意味です。私は、般若心経を理解する上で、仏教を理解する上で、この一節はとても重要な言葉だと思います。
顛倒(てんどう)とは「理に反すること。ものごとの道理からはずれた考え」という意味です。私は「悪しき人・悪しき行為から遠ざかるべき」という意味にも理解しております。残念ながら、我々は決して完璧ではありません。「他者と正しい道に導く。」と誓願し、実践することは大事です。誓願自体は正しくても、誓願を実現できるかどうかとなると別の次元の問題になってしまうと思います。他者に危害や暴力を加えようとする相手に対しては、「君子危うきに近寄らず」の諺のように距離を置かざる得ないことも多いと思います。
10年前以上のベストセラーですが、養老孟司先生は『バカの壁』の中で、「生まれ育ってきた文化の違いから、会話や議論が成立たない場合も多い。話せばわかる、というのは一種の幻想である。」旨のことを書かれていたと思います。「すべての人と仲良くなれる。理解し合える。」と言うのは、幻想にすぎない場合も多いと思います。
四苦八苦の中に怨憎会苦があります。我々は、この現実社会において嫌な上司・嫌な同僚・嫌な取引先とも関わらざるを得ない場合が多い。少々のことは我慢せざるを得ないと思います。我慢の限度を越えそうなときには、距離を置くことも必要です。距離を置かざるを得ないと思います。
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全員を救う仏様の考え方に反するんじゃないですか?
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「厭離一切顛倒」とどうバランスを取るべきか、難しいところですね。「全ての人を救う」という誓願は大事だと思います。これを忘れたら、どんなに美辞麗句で取り繕っても、「厭離一切顛倒」が差別やネグレクトを正当化するための理論武装にされてしまいます。気を付けたいところです。
質問者からのお礼
圓常寺 三宅 聖章様
お答え、ありがとうございます。
そうですか。
人を選ぶことは、良いことですか。
今まで間違っていました。
ありがとうございます。
林鴬山 憶西院 超覚寺 和田隆恩様
お答え、ありがとうございます。
なるほどです。
離れるも、くっつくもご縁。
そう考えれば、納得いきますね。
腑に落ちました。
洞林寺 吉田俊英様
お答え、ありがとうございます。
お答え、ちょっと難しかったです^^;
でも、言わんとすることは分かりました。
そうですよね。
人を選ぶのは良いことだけど、下手したら「差別」につながります。
「いじめ」にも通じるところがあります。
気をつけようと思いました。