僧侶の方は葛藤はないですか?
とあることから数年前に仏教を求め学ぶようになり沢山のことに気ずかされました。
が…まだ勉強不足なのでしょうけど、この現実世界(社会)は必ずしも信義誠実で成り立ってはいません、むしろ騙し合っている事の共通認識の上に成り立っていると思うほどです、その中で私だけが正しいとも思いません、仏教を通じ気ずかされました、しかし心の中でなんでこんな奴らと…と言う想いや、ここから離れられたら…と現実逃避したくなり、ありもしない理想世界に逃げたくなります、多分この想いを持っている間は私に安らぎはないんだろうと察してはいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おもしろき、こともなき世を、おもしろく、すみなしものは…
ここにいるお坊さんは皆んな、この現実世界(社会)に何かしら思う所があってここにいるのだと私は思っています。
前回のご質問の延長なのでしょうが、私は自分に自信がありません。しかし仏教には自信があります。だって2500年間、インドからいったん中東に振れてシルクロードを通り日本や東南アジアへ、そして今日では欧米まで伝わってく中で、何桁になるか想像もつかないほど莫大な人々のフィルターに濾されに濾され、今、我々に伝わっているのですもの。
だから仏教を学ぶ心があるということは、それがそのまま人類を信頼しているということなんだと私は思うんですよね。私は『伝統仏教は確かなもの』だと信じています。どの宗派でも。『確か』ではない宗派は歴史の中で淘汰されていますからね。
さて、諸行無常・諸法無我は「確かなものは何も無い」という意味ではありません。
あなたが後生大事にしている『自分』というものは、案外に心の支えにならないんですよ、実は苦の原因の親玉なんですよという意味です。
人は誰に教わるでもなく、生まれながらに息の仕方を知っており、寝る方法を知っている。それと同じように、実は生まれながらに幸せを感じる方法を持ち合わせて生まれてきているんです。それが『確かなもの』。
でも、人は成長とともに知恵をつけて、生まれながらの『確かなもの』とは別の、もっと都合の良さそうに思えるものに突き進んでしまうんですね。それが『正しいとは何か』という知恵です。それを例えば般若心経では『顛倒夢想』(てんどうむそう)、180°逆さまにひっくり返ったような妄想だと呼んでいます。あるいは無明、あるいは煩悩、あるいは穢土、色んな呼び方がありますね。
そうではなく、あらゆる苦を生む知恵が発生する以前の所、本来のあるべき所、『確かなもの』にたち帰りましょうというのが、諸行無常であり諸法無我です。
そこが1人に伝われば1人分、騙し合っている事の共通認識から解脱することになるでしょう。
追記
背景思想や行間の部分をスッ飛ばして書いていますから、何度も読み返せば分かるというものではないと思いますよ。途中で投げ出さずに仏教の道を進んで行けば、いつか分かっていただけると思います。そのためにチョット方向性に調整が効けばいいなという回答です。
常に葛藤しています。
何か葛藤するものがあるようですね。
おそらく誰にでも葛藤はあると思いますよ。
私の場合はそうですね、そのような時は、ある時は、初心を思い出してみたり、またある時は、何が一番大切なのか考えてみたり、また、お坊さんになってからは、仏教的にはどうか考えてみたり。
悩みはつきませんね。
悩みを一人で抱え込んだら思わぬ方向に向かってしまうこともあるので、時には身近な人に相談したり、専門家に相談したり、ハスノハに相談したりしてくださいね。
違いを認める寛容さ
いろんな人がいるからねぇ。
他人を見てあれが違うこれが違う、「これは葛藤だ」などと言っていたらきりがありません。
例えば、あなたの質問中、「気ずく」とありますが、正しくは「気づく」です。質問に答えてくださったお坊さまたちは、そこをスルーして答えて下さってます。あなただってこうやって指摘されたら気分悪いでしょう。
多少の違いに気がついても、それを認める寛容さを持ち合わせた方がストレスなく生きていけると思いますよ。
人が創った慈悲ならば、人が人を許す宣言である
仏教徒は五戒などの戒を授かります。
しかし、一部の聖者を除いて、ほとんどの人は戒を守れません。
お坊さんだってそうです。
ですから、戒を授かることは葛藤の始まりです。むしろ、葛藤するために戒を授かるのです。
浄土宗では「還愚(げんぐ)」という言葉があります。
愚かな自分に還る。自身の愚かさに気づくこと、煩悩具足の凡夫であることに気づくことを言います。「葛藤しなさい」と言ってるようなものですよね。
ただし、葛藤だけでは辛いばかりです。
葛藤を抱えながらでも、そこに救いが必要でしょう。
その救いとは、仏教の平等慈悲の精神です。
こんな愚かで過ちだらけの私を、仏様は見捨てない。
そこに安心感、救いがあるのです。
皆がもれなく救われますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。
仏教も、所詮は人が創った教義なのかも知れません。頭でっかちな絵空事と思われる人もいるでしょう。
しかし、人が創った慈悲ならば、
それは、人が人を許し慈しむという宣言ではないでしょうか。
「二諦」
まんじゅ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教では、「二諦」と申しまして、世俗のレベルの真実「世俗諦」と勝義(悟り)のレベルの真実「勝義諦」の二つにて理解、修習を進めていくことが必要となります。
これは、仏教の所依となる仏典においても、釈尊が世俗のレベルに合わせて、つまり、「方便」として説かれた教えであるのか、あるいは、最高の真実義である悟りのレベルから説かれてあるのか、そこを理解していかなければならないものとなります。
世俗のレベルの真実、方便の教えで留まってしまっていては、やはり、なかなか葛藤から抜け出すことは容易ではありません。
勝義(悟り)のレベルへ向けて更に精進して参りたいところとなります。
ナーガールジュナ大師「根本中論」観四諦品(第二十四・第八偈~第十偈)
『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』
『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』
『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
三宅 聖章 様
回答ありがとうございます。
常に仏教に向き合っておられる僧侶の方には、この世界がどう見えているのかなと思った次第です。
たまに、仏教にふれたがために中途半端な私には、空しく絵空事のように思うことがあります。
そういえば前の質問の回答で、『念仏こそが確かなもの』この言葉の意味の深淵を探してみて下さい。とアドバイスを頂いたばかりでした。
失礼しました。
大慈 様
回答ありがとうございます。
何度も読み返しているのですが、なかなか理解出来ていません、何度も読み返してみます。
光禪 様
回答ありがとうございます。
『違いを認める寛容さ』も
仏教を通じて『気づか』されました^_^
…が、寛容さ・器が大きいことと、見て見ぬ振り又は無関心、が自分の中の良心や正義感との折り合いが分からない時があるんです。
無我=無関心ではないよなー?とか。
そんな時、仏教的にはどうなのかなと考えることがあるんですが、仏教の問題でもないですね。
大慈 様
追記、お気遣いありがとうございます。
>途中で投げたさずに…
そうですよ、一喜一憂していた方が楽なんじゃないかと思う時があります。
すみません、大慈様の追記の返信に誤字がありました。
>そうですよ、(誤)
>そうなんですよ、(正)
失礼しました。
願誉浄史 様
回答ありがとうございます。
>人が創った慈悲ならば、
それは、人が人を許し慈しむという宣言ではないでしょうか。
人が書いた絵に書いた餅、
仏教が絵空事だとは思わないんですが、字面を追っている今の私にはまだ身体に浸透していないのでしょうね。
信じていた大切な世界が崩れた時、あんたが勝手に思い込んでいただけだと知らされた様な気がして、白々しいやら空しいやら絵空事のように感じるが故に、ならば確かなものはと求めるが…私の足りなさと思っています。
>皆がもれなく救われますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。
他者に隔てなく偽りなく上記の気持ちを持てれば、……
なんとなくですが、私の慈悲ではなく
私の都合の離れた慈悲ですかね?
私にとって気に入らない人がいたとして私が許そうが許すまいが、この現実世界は何も変わらないですものね。
和田隆恩 様
回答ありがとうございます。
>安心して葛藤しています。
葛藤していることに葛藤しなさんなと言うことでしょか。
迷っていることに迷うな、怒っていることに怒るな、…。
川口英俊 様
回答ありがとうございます。
>「二諦」…
ずっとwikipediaとにらめっこしてました。
『勝義諦とは、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理のこと[1]。仏教の目ざす悟り、すなわち涅槃を指す[1]。真諦ともいう[1]。世俗諦の語とともに用いられる仏教用語であり、世俗諦と合わせて二諦とされる以外は、解釈にさまざまな説がある。』
『空そのものと、空の意義を知らないと述べる[8]。そして8-12節において、二諦説が提示される。』←wikiからの引用ですが、「空」例えば、般若心経における無智亦無得、空の立場からみた智慧の完成があるから、そちらを学びなさいと言う事でしょうか。