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僧侶の方は葛藤はないですか?

回答数回答 6
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とあることから数年前に仏教を求め学ぶようになり沢山のことに気ずかされました。
が…まだ勉強不足なのでしょうけど、この現実世界(社会)は必ずしも信義誠実で成り立ってはいません、むしろ騙し合っている事の共通認識の上に成り立っていると思うほどです、その中で私だけが正しいとも思いません、仏教を通じ気ずかされました、しかし心の中でなんでこんな奴らと…と言う想いや、ここから離れられたら…と現実逃避したくなり、ありもしない理想世界に逃げたくなります、多分この想いを持っている間は私に安らぎはないんだろうと察してはいます。


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

おもしろき、こともなき世を、おもしろく、すみなしものは…

ここにいるお坊さんは皆んな、この現実世界(社会)に何かしら思う所があってここにいるのだと私は思っています。

前回のご質問の延長なのでしょうが、私は自分に自信がありません。しかし仏教には自信があります。だって2500年間、インドからいったん中東に振れてシルクロードを通り日本や東南アジアへ、そして今日では欧米まで伝わってく中で、何桁になるか想像もつかないほど莫大な人々のフィルターに濾されに濾され、今、我々に伝わっているのですもの。

だから仏教を学ぶ心があるということは、それがそのまま人類を信頼しているということなんだと私は思うんですよね。私は『伝統仏教は確かなもの』だと信じています。どの宗派でも。『確か』ではない宗派は歴史の中で淘汰されていますからね。

さて、諸行無常・諸法無我は「確かなものは何も無い」という意味ではありません。
あなたが後生大事にしている『自分』というものは、案外に心の支えにならないんですよ、実は苦の原因の親玉なんですよという意味です。

人は誰に教わるでもなく、生まれながらに息の仕方を知っており、寝る方法を知っている。それと同じように、実は生まれながらに幸せを感じる方法を持ち合わせて生まれてきているんです。それが『確かなもの』。
でも、人は成長とともに知恵をつけて、生まれながらの『確かなもの』とは別の、もっと都合の良さそうに思えるものに突き進んでしまうんですね。それが『正しいとは何か』という知恵です。それを例えば般若心経では『顛倒夢想』(てんどうむそう)、180°逆さまにひっくり返ったような妄想だと呼んでいます。あるいは無明、あるいは煩悩、あるいは穢土、色んな呼び方がありますね。

そうではなく、あらゆる苦を生む知恵が発生する以前の所、本来のあるべき所、『確かなもの』にたち帰りましょうというのが、諸行無常であり諸法無我です。

そこが1人に伝われば1人分、騙し合っている事の共通認識から解脱することになるでしょう。

追記
背景思想や行間の部分をスッ飛ばして書いていますから、何度も読み返せば分かるというものではないと思いますよ。途中で投げ出さずに仏教の道を進んで行けば、いつか分かっていただけると思います。そのためにチョット方向性に調整が効けばいいなという回答です。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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常に葛藤しています。

私は浄土真宗ですが、
葛藤していても、
愚かであっても、
阿弥陀様に救っていただいて成仏できる、
という教えなので、
安心して葛藤しています。

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和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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何か葛藤するものがあるようですね。
おそらく誰にでも葛藤はあると思いますよ。
私の場合はそうですね、そのような時は、ある時は、初心を思い出してみたり、またある時は、何が一番大切なのか考えてみたり、また、お坊さんになってからは、仏教的にはどうか考えてみたり。
悩みはつきませんね。
悩みを一人で抱え込んだら思わぬ方向に向かってしまうこともあるので、時には身近な人に相談したり、専門家に相談したり、ハスノハに相談したりしてくださいね。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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違いを認める寛容さ

 いろんな人がいるからねぇ。
 他人を見てあれが違うこれが違う、「これは葛藤だ」などと言っていたらきりがありません。
 例えば、あなたの質問中、「気ずく」とありますが、正しくは「気づく」です。質問に答えてくださったお坊さまたちは、そこをスルーして答えて下さってます。あなただってこうやって指摘されたら気分悪いでしょう。
 多少の違いに気がついても、それを認める寛容さを持ち合わせた方がストレスなく生きていけると思いますよ。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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人が創った慈悲ならば、人が人を許す宣言である

仏教徒は五戒などの戒を授かります。
しかし、一部の聖者を除いて、ほとんどの人は戒を守れません。
お坊さんだってそうです。
ですから、戒を授かることは葛藤の始まりです。むしろ、葛藤するために戒を授かるのです。
浄土宗では「還愚(げんぐ)」という言葉があります。
愚かな自分に還る。自身の愚かさに気づくこと、煩悩具足の凡夫であることに気づくことを言います。「葛藤しなさい」と言ってるようなものですよね。
ただし、葛藤だけでは辛いばかりです。
葛藤を抱えながらでも、そこに救いが必要でしょう。
その救いとは、仏教の平等慈悲の精神です。
こんな愚かで過ちだらけの私を、仏様は見捨てない。
そこに安心感、救いがあるのです。
皆がもれなく救われますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。
仏教も、所詮は人が創った教義なのかも知れません。頭でっかちな絵空事と思われる人もいるでしょう。
しかし、人が創った慈悲ならば、
それは、人が人を許し慈しむという宣言ではないでしょうか。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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「二諦」

まんじゅ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教では、「二諦」と申しまして、世俗のレベルの真実「世俗諦」と勝義(悟り)のレベルの真実「勝義諦」の二つにて理解、修習を進めていくことが必要となります。

これは、仏教の所依となる仏典においても、釈尊が世俗のレベルに合わせて、つまり、「方便」として説かれた教えであるのか、あるいは、最高の真実義である悟りのレベルから説かれてあるのか、そこを理解していかなければならないものとなります。

世俗のレベルの真実、方便の教えで留まってしまっていては、やはり、なかなか葛藤から抜け出すことは容易ではありません。

勝義(悟り)のレベルへ向けて更に精進して参りたいところとなります。

ナーガールジュナ大師「根本中論」観四諦品(第二十四・第八偈~第十偈)

『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』

『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』

『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

三宅 聖章 様
回答ありがとうございます。

常に仏教に向き合っておられる僧侶の方には、この世界がどう見えているのかなと思った次第です。

たまに、仏教にふれたがために中途半端な私には、空しく絵空事のように思うことがあります。

そういえば前の質問の回答で、『念仏こそが確かなもの』この言葉の意味の深淵を探してみて下さい。とアドバイスを頂いたばかりでした。
失礼しました。

大慈 様
回答ありがとうございます。
何度も読み返しているのですが、なかなか理解出来ていません、何度も読み返してみます。

光禪 様
回答ありがとうございます。
『違いを認める寛容さ』も
仏教を通じて『気づか』されました^_^
…が、寛容さ・器が大きいことと、見て見ぬ振り又は無関心、が自分の中の良心や正義感との折り合いが分からない時があるんです。
無我=無関心ではないよなー?とか。
そんな時、仏教的にはどうなのかなと考えることがあるんですが、仏教の問題でもないですね。

大慈 様
追記、お気遣いありがとうございます。
>途中で投げたさずに…
そうですよ、一喜一憂していた方が楽なんじゃないかと思う時があります。

すみません、大慈様の追記の返信に誤字がありました。
>そうですよ、(誤)
>そうなんですよ、(正)
失礼しました。

願誉浄史 様
回答ありがとうございます。

>人が創った慈悲ならば、
それは、人が人を許し慈しむという宣言ではないでしょうか。

人が書いた絵に書いた餅、
仏教が絵空事だとは思わないんですが、字面を追っている今の私にはまだ身体に浸透していないのでしょうね。
信じていた大切な世界が崩れた時、あんたが勝手に思い込んでいただけだと知らされた様な気がして、白々しいやら空しいやら絵空事のように感じるが故に、ならば確かなものはと求めるが…私の足りなさと思っています。

>皆がもれなく救われますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。

他者に隔てなく偽りなく上記の気持ちを持てれば、……

なんとなくですが、私の慈悲ではなく
私の都合の離れた慈悲ですかね?

私にとって気に入らない人がいたとして私が許そうが許すまいが、この現実世界は何も変わらないですものね。

和田隆恩 様
回答ありがとうございます。

>安心して葛藤しています。

葛藤していることに葛藤しなさんなと言うことでしょか。

迷っていることに迷うな、怒っていることに怒るな、…。

川口英俊 様
回答ありがとうございます。

>「二諦」…
ずっとwikipediaとにらめっこしてました。
『勝義諦とは、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理のこと[1]。仏教の目ざす悟り、すなわち涅槃を指す[1]。真諦ともいう[1]。世俗諦の語とともに用いられる仏教用語であり、世俗諦と合わせて二諦とされる以外は、解釈にさまざまな説がある。』
『空そのものと、空の意義を知らないと述べる[8]。そして8-12節において、二諦説が提示される。』←wikiからの引用ですが、「空」例えば、般若心経における無智亦無得、空の立場からみた智慧の完成があるから、そちらを学びなさいと言う事でしょうか。

「お坊さんのことを知りたい」問答一覧

他人がやってる寺を兼務で引き受けたくない

40代独身で、500件ほどの檀家がいる田舎の寺の住職をしております。 近所の住職死亡後、やり手のない寺を数件、兼務しており、合わせると500件ほどになります。 もともと別の自宅住まいでサラリーマンをしてましたが、途中親が病気にかかり、長男で跡取りだった私に、やってくれと親から頼まれて継いだのがきっかけで、仕事を辞めて継いだのですが、もともと私は他人とコミュニケーションを取るのが苦手なので、現在寺の檀家との関りが大変で、葬式が入る都度、寺の仕事が嫌でたまりません。 そのような状態で、精神科に通院しながら、精神安定薬と睡眠薬を処方してもらいながらなんとか寺の仕事をしてます。独身の姉にも協力してもらい、私が檀家の対応全般、姉は裏で火事全般しながらどうしてもの時だけ檀家の対応・・・みたいな感じでやってます。 近所に檀家100件にも満たない兼業住職がおり、結婚してますが子供に恵まれなかったようで、私はその寺のほうるいという立場になってます。 その寺の行事を手伝っているのは私だけで、ほかにもほうるい住職が数名いますが、書類の名前だけで、何かあっても一切かかわりたくないような状態になってます。 その住職が近々危なく、後もいない状態で、その住職の兄弟などの身内はいても、皆仕事をしており、寺なんかやりたくないと皆いっております。 今後その住職はなくなった際は、ほうるいの私がその寺を兼務として引き受けないといけないのでしょうか? 今現在500件ほどの檀家の対応を私と姉で行っており、相当きつく、これ以上ほかの住職がやってる寺の檀家のめんどうまで見れません。 正直な話、もう今なんとかやってる自分の寺の檀家の対応だけでも相当大変なので、これ以上ほかの寺の檀家まで兼務で押し付けられたくなく、関わり合いになりたくありません。 こういった場合、今後その住職がなくなった際、その寺の兼務を断ることは可能でしょうか? 本山に事情を説明し、頼めばだれか代わりの住職を派遣してもらい、後を継いでやってもらうことはできるのでしょうか?

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離婚問題で悩んでいる時、バツイチのお坊さんと知り合いました。最初彼から遊びの誘いがあり。失礼な人と断りました。今は友人として付き合っています。 友人関係が続いたのは、後日先日の行動が人として大変失礼な対応だった。反省していると、彼から謝罪があったからです。その際にも、ちゃんとしたお付き合いの話はありませんでした。 私は元夫から多種のDVをうけ男性不信になりました。いつか恋愛出来たらいいなと夢見ながら、男性が怖いです。結婚は絶対に無いです。 加えて彼は寺の跡取りで一緒に家庭を築き、寺に入り子供を産める人を探しています。私は子供を産むこともできません。だからあえてハッキリさせないようにしてました。 その後仲良くなるにつれ、プライベートを明かさなかった彼が以前より私にプライベートを見せるようになりました。気付けば毎日メールで連絡をし、月2~3回程度、昼夜時間を割いては健全に遊んでいます。トキメキはないけど気持ちは【凪】です。友達以上恋人未満の1番いい感じの時 自然と今以上仲良くなる予感があり、仲良くなりたそうな行動が見えたり、泊りがけで旅行に行くような話もチラホラ、ただ、お坊さんの勤務形態ってどうなんでしょう? 私は会社員で有給もあります。毎月月末に翌月の予定が未定。次のデートの約束は大抵決まりません。休みがまだ決まらない。分からないって、そんな事ありますか?もうずっとそんな状態で、深く付き合いたくないから、遠回しにそう言ってるのだと思うようになりました。 嫌なら嫌と言って欲しいのに旅行は行きたい、遊ぶのも仕事終わりなら全然大丈夫、凄いケチなのに自分から遊びにも誘って車も出してくれます。 どうゆうこと?と、モヤモヤしてますが、でも誰にも聞けず、彼もはっきり言わないので、やっぱり遊ばれているのでは?と思う反面、彼は嘘をつくのがべらぼうに下手で、私には嘘をついた事がない為、もしかして本当なのかも?と思いたい気持ちからこちらにお聞きしました。 休みが分かりにくいって業界的に本当ですか?何でですか?ちなみに彼は実家の住職をしながら、別のお寺に本業で務めています。本業の休みの日に実家で法事をしたりしています。 この関係がハッピーエンドにはならないと分かっていますが、一緒にいるだけで気持ちが穏やかになれる相手です。嘘ばかりの元夫の毒が抜けていく気がして魂が救われています。

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