阿弥陀様への信仰が分からなくなりました
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。
でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。
阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか?
とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)
阿弥陀仏の救いは現世利益もあります。それは現生正定聚という利益です。
往生浄土が死後(臨終の一念)であったとしても、往生浄土が定まるのは現生の信心においてです。この往生浄土が定まった位を現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)と言います。
それは実際に往生するのは死後だけどそれが定まったのだから死ぬまで我慢しなさいということではありません。往生浄土を心待ちにしてその希望で現生の悩み苦しみをごまかして生きなさいということでもありません。
浄土のはたらきを現生において受けるというところに具体的な救いがあるように思います。そのためには浄土とはどういう世界かということを阿弥陀仏の願いに聞き尋ねていかねばなりません。
浄土とはけして死後の理想世界ではないのです。
阿弥陀仏は私たちの欲望を叶える世界を願って浄土を建立したのではありません。
すべての人をもらさず救いたい
だれもがありのままで輝き合う世界を作りたい
傷つけあいののしりあい貪りあうようなことのない世界を作りたい
そのように願ってその願いを成就して浄土を建立しました。つまり浄土にいない私たちはそのような状態にいないということです。
ありのままに満足できず自らの思いに苦しみ、傷つけ、ののしり、貪るような在り方をしている。
そのことを知らせた上で、それでもそれを障りとせずそのままのあなた(私)を救うとの願いであり誓いであり呼びかけです。
それがたった六字の「南無阿弥陀仏」という言葉にまでなって今私たちに届いています。私たちはその言葉を称え、聞き、その言葉から言葉の願いを尋ねなければなりません。
悩み苦しむ私たちはありのままが苦しいのでなく、ありのままでなくなろうともがくことが苦しいです。迷いの中でもがくことがありのままの姿であると言えるような愚かな存在です。
それでもまだ自分の力でなんとかなると頑張ってもがくのか?あなたの姿は今どうなっているのか?と呼びかけ目覚めを促します。
その愚かさが現生でなくなるのではありません。それは往生浄土の利益です。
愚かさに気づき、愚かさを引き受け、それでも生を尽くしていけるのが現生正定聚の利益ではないでしょうか。
自分の悩みを自分が受けるはずもない不当なものと見るのでなく、自分の在り方ゆえの悩みだと気づき、悩みの生を尽くしていけるのです。
今生での救いへと向けた教えが仏教でもあります
つぐみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
阿弥陀如来様の救いは、確かにこの娑婆世界にも届いております。しかし、阿弥陀様は、救いの御手を差し出されておいででも、その御手に気付き、救いの御手をおとりできるかどうかは、自分自身におけるところ次第となって参ります。
信仰というものも、ただその救いに頼ることにて、救いが得られるものではなく、確かなる仏道修習による得心によりて成り立つところとなります。
信仰につきましては、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心した上にて、受け入れていくことが肝要となって参ります。
もちろん、今生での救いへと向けた教えが仏教でもあります。
そのためにも、迷い苦しみの元となってしまっている煩悩、無明の対治、悟りの妨げとなっている煩悩障、所知障の断滅へと向けて、仏道における智慧と福徳の二資糧の修行に少しずつでも取り組んで参りたいものとなります。
共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
地獄に落ちることはありませんよ。なぜなら、一度でも南無阿弥陀仏とお唱えしたら阿弥陀様は救ってくれるのですから。安心してくださいね。
また、今どのような気持ちで阿弥陀様を見たらいいのか、それについては浄土宗を開かれた法然上人が、あなたのような方にこのように言われました。
「阿弥陀様のおかげで私の病も不運も今の程度に収まっています。ありがとうございます。南無阿弥陀仏。」このように思ってくださいね。
少しずつ少しずつ心と体を癒してくださいね。
あなたを見守っているのは阿弥陀様だけではなく、ご両親も、そして沢山のご先祖様達もいますからね。
人生はまだまだこれからですからね。
大丈夫。現世でも必ず阿弥陀様は救ってくれますよ。
つぐみさん、こんにちは。
阿弥陀様の信仰をしているのですね。素晴らしいことです。
阿弥陀様は死後のお救いだけをしているわけではありません。得意分野が死後の世界ということで、仏さまですから、生きている今でもすべての願いはかなえられるのです。あなたが辛いと思っていることも含めてすべて阿弥陀様は見て知っておられます。だからこのハスノハに導かれたのではと思います。
ただ、あなたの苦しみの解決と阿弥陀様の解決の救いとはゴールが違います。仏さまは、金持ちになりたいという願いがあっても、金持ちには導きません。病気を治したいと願っても、病気を治すことには導きません。でも仏になるために金持ちになることが必要であれば仏さまは手を差し伸べます。仏さまになるために病気の完治が必要であれば病気の完治に導きます。
仏さまは、つぐみさんがどのように精進すれば仏さまになれるかと常に願って手を差し伸べているのです。そこに気づくのが私たちの修行になります。あなたの苦しみも仏になるための導きかも知れません。どうすればこの苦しみがなくなるのか?つぐみさん自身が考えて実行しなければなりません。そこに仏さまのご加護がつくのです。
辛いと思いますが、阿弥陀様は必ずあなたを見守ってくださっています。子供が道でコケた時に、すぐに助けずに一人で立ち上がれるように見守っている母親のようにです。がんばって、お念仏を唱えて阿弥陀様におすがりください。十回や百回ではだめです。千回でも一万回でも、自分の辛い心がなくなるまで唱えるのです。一緒にお念仏を唱えてがんばりましょう。合掌
哀しいのかい?大丈夫 僕も哀しいから
筋肉少女帯というバンドの、20年以上前の歌に「星座の名前は言えるかい」という曲があります。
その歌詞に、
「寂しいのかい?大丈夫 僕も寂しいから
哀しいのかい?大丈夫 僕も哀しいから
やりきれないかい? 大丈夫 それ俺も得意
だから ねぇ 星座の名前は言えるかい?
星の名前を言えるかい?
マジシャンの名 呼べるかい?
死にたいのかい?大丈夫 僕も消えたいから
生きてたいかい?大丈夫 僕も生きたいから
決めかねるかい?大丈夫 それ俺も得意
だけど ねぇ 来たるべきコトわかるかい?
昔の思い消せるかい?
マジシャンの名 呼べるかい?」
とあります。
歌詞を書いた大槻ケンヂさんが阿弥陀仏を意識していたかはわかりませんが、
私はこの歌詞の「星座の名前」「マジシャン」に、極楽浄土・阿弥陀仏を重ねてしまいます。
そして、「哀しいのかい?大丈夫僕も哀しいから」「やりきれないかい?大丈夫 それ俺も得意」という「僕」や「俺」は、あなたと一緒に阿弥陀仏の救いを心待ちにしている、
煩悩まみれの凡夫仲間、愚かな人間の仲間達ではないでしょうか。
阿弥陀仏信仰は、阿弥陀仏の平等の慈悲を支持する人間の優しさへの希望なのだと思います。
阿弥陀仏を信じる人々が存在していい世の中は、捨てたもんじゃないなぁ、と思います。
質問者からのお礼
泣きながら阿弥陀様にお念仏を申し上げました。
そうですね、阿弥陀様は常に私のそばにいてくださいます。慈悲深く見守ってくださっています。それに気づけなかった私のなんと愚かなことでしょう。
しかし皆様のおかげでそれに気づくことができました。阿弥陀様に恥じないように生きたいと思います。
ありがとうございました。