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私はもう手遅れな人間なのでしょうか?

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はじめまして。

自分で考えても答えが見つからず、この場をお借りして質問をさせていただきました。

近頃、自分が何のために生きているのかわかりません。人は皆、何か目的や目標を持って生きているのだといいます。そのために一定の苦痛を我慢し、対価を得ているのだと思います。
それでは、何も無い私は一体どうしたら良いのでしょうか。
特別幸福でも不幸でもありませんし、現在の生活や職にそれほどの不満があるわけでもありません。ただ、今後生きていくうちに、生きる目的や意味が見つかるとも思えないのです。自分の人生に、何の楽しさも見出すことが出来ません。

私は、偶に人に容姿を褒めていただくことがあります。それを喜ばしいことであると捉えられていたのも短い間のことで、現在は一種の偏見や差別のように感じられてならないのです。
ある人が言うには、私はこのみてくれのおかげで何の苦労もせず、稚拙さを見逃され、失敗を許される楽な人生を送っているそうです。
そうかもしれないし、そうではないかもしれません。仮に私がそうではないと思っていても、周囲からはそう捉えられているのだと思うと、相手にも、そして自分にも期待するのをやめるほか、ありません。

こんな自分でも人と関わるうちに人間らしい感情を育てることができるのではないかと考えたこともありました。しかし、そうではありませんでした。何もない自分を知られる恐怖からか、近づいては離れるということを繰り返し、結局相手を傷つけてしまいます。
こんな人間が、これからどうやって生きていけば良いのでしょうか。

毎日、死ぬ事を考えています。
死ぬことではなく、死の直前に訪れるであろう痛みへの恐怖から実行に移せずにいます。

これまでの人生のこと、今後の人生のことを私なりに沢山考えたつもりです。死後周囲の人間に迷惑がかからないよう、できる限りの準備は整えてあります。

早く、この煩わしいすべてのことから解放されたいです。

私はまだ手遅れではないのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

結論を出すのは、まだ早いですよ。

先ずは目的や目標を見つけるために
今から生きていきませんか?

私は在家出身で
30歳で脱サラして坊主になりました。
それまでは心の中はフラフラしていました。
上手くいかなくて希死念慮も持っていました。

たまたまのご縁で気まぐれで得度して
性に合ったのか20年勤まっています。
振り返れば
フラフラしていた頃の体験が
坊主としての糧になっている気がします。

寿命が尽きれば嫌でも死にます。
逆に言えば
何か役目があれば生かされるのだと思います。
その役目を探すために生きませんか?

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おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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変わるのに手遅れはない。

あい 様 相談ありがとうございます。

人は変わろうと思えば、死ぬ瞬間まで変わることが出来るんだそうです。
変わることを意識すればいいんです。
「自分は変われる、私は変わる」と意識してください
だから、手遅れは無い、という事になります。

それでも、あなたの「手遅れではないのでしょか?」という言葉には
何のために生きるか解らないから、救ってください。助けてくださいと訴えているのが良く解ります。
きっかけとして具体例を挙げるなら
「人と関わるうちに人間らしい感情を育てることができるのでは」
を「人」に限定せずに、花と関わる・ペットと関わる・大地・自然・風景・空など
関われそうな物から関わってみては如何でしょうか?
例えば、花を育てる、そして、誰かの誕生日にその花を贈る。
あるいは、子犬と暮らす。犬と散歩するうちに、仲間ができる。
はたまた、ご当地グルメにはまる。など
煩わしさに、花やペットなんか興味がわかないとかあるかもしれませんね。
でもいいんです。あなたが、きっかけとなる何かを探し始めて、動いて見てくれれば。

しばらくここに投稿質問することが趣味になってもいいんです。
絶望しているより、何かを、きっかけを、探し回っている方いいんです。
疲れたら、休んでまた歩み始めればいい。

あなたは生きたいのです。生きる人なんです。
もっともっと視野を広げれば、きっと見つかるでしょう
アンテナをもっと広げる、情報量を増やすなどして、
きっかけ作りをしてください。
そして、道は一つではない、幾つもの道があっていいし
生きるのにオプションもあっていい、という事も、意識してくださいね。

お読みいただきありがとうございました。
一礼
追伸、御礼メッセージありがとうございました。
人は、絶対に思うままに死ねないので、「誰の思惑にも惑わされず」を心がけて、生きてください。それを生きたあなたは、証を伝える必要があります。自分の力を信じる必要があります。仏様に祈って力に変えるべきです。まだまだこの世にあなたが必要なんです。
字数制限でこれまで。お読みいただきありがとうございました。

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おきもち

お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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【追記あり】手遅れはない!~問いに応えるあなたの人生を

こんばんは。ご相談拝読しました。

>自分が何のために生きているのかわかりません。

というのは人間が故の悩みです。誰もが心の底に抱える問いですね。

でもみんないつしか見て見ぬふりをしてごまかしごまかし人生を過ごしてしまうのかもしれません。しかしこの問いはいつでも心の底にくすぶっていて、何かのきっかけに顔を出してくるものです。
今、あいさんはその問いに向き合おうとしているのです。死にたいという思いはその反動でもあるでしょう。それくらい強く「意味」を求めているのですね。

ところで、「手遅れな人間」などいません。もちろん世間的な決まり事で何かをするのに年齢制限があったり、過去には戻れないという事実があるという意味では「何かをするのに手遅れ」ということはあるでしょう。
でも人間自体に手遅れなどありません。いつからでも今この瞬間にでも新しい一歩を踏み出すことができるのです。

「〇〇のため」という意味は人間の考える事です。考える人の頭の中にあるものです。でも人はそれを実体化して執着してしまいます。

すると「〇〇」に合わないものは間違いになってしまいますし、いざ「〇〇」を手に入れても今度はいつ失わないかと不安になってしまうものです。

人間が考える「意味」とはそのようなものです。

仏教はその問いに「意味があるから生きているのではない、縁(条件・環境)がととのっているから生きているのだ」と応えます。

「意味」が先でなく「事実」が先です。意味は後付けです。つまり自由です。無限です。

でも人はある意味では自由に耐えられない。確かなものを握りたがる。しかし握るとまた上記の〇〇の例の様に苦しむものです。

仏教の教えはその握った答えを壊すものです。すなわち「答え」でなく「問い」を持たせてくれるのです。問いに応える歩みが仏道というあなたの人生になるのです。

周りからの評価の影響は確かにあるでしょう。でも自分で握った答えに自分が耐えられなくなることが何よりも辛く空しいです。

でもそこからはいつでもやり直せるのです。手遅れではありません。

どうぞこれからもあなたの思いをここhasunohaにそのままぶつけてください。ごまかしも馴れ合いも必要もありません。

【追記】
ここhasunohaの他の問答をいくつか読んでみてください。そしてまたご質問ください。また話しましょう。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

皆さま、あたたかいご回答をいただきまして心よりお礼申し上げます。

皆さまにいただいたお言葉とは裏腹に、日を追うごとに生きる虚しさが増していきます。
意味というものを追い求めることに限界があるということも、よく理解できます。

周囲が思う私と、私が思う私の認識のズレがどんどん広がっていき、もう何が私だったのか分かりません。
無意識の内に周囲の期待に沿う自分を演じているのでしょうか?それともこれが本来の私の人格なのでしょうか。どちらも私であると思えば答えとして簡単なのかもしれませんが、そう考えを巡らせる時点でそのどちらも私ではないように思えて仕方がありません。

まだ手遅れではない私、がもしまだ残っているなら、誰の思惑にも惑わされず、せめて最期くらい自分の思うままに死にたいものです。

考えすぎだと慰められるのも、大丈夫かと哀れまれるのも、もうたくさんなんです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ