わかりやすく
なぜ、仏教は小難しく真理を語るのですか?
結局何が言いたいのかを理解するまでに、大変でした。
もっと解りやすく、結局はなにが言いたいのかを述べてくれた方が、良いと思いませんか?
それとも、あえて、わざと、難しくしているのですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あえてと言うか…
お気持ちはわかります。私も同じです。わかりたい、納得したい、スッキリしたい。
でも私たちはわかって救われるわけではないのです。
今苦しんでいる私にわかるということは、その私にわかる程度のものということです。私自身が苦しいのに、その私の範疇を一歩もでないものでは救われないのです。
「参考になりました」「わかりやすいお話しでした」「ためになりました」
そのように納得できたところで何も現実の苦しみを乗り越える力にならないものでは意味がありません。
救われるときは仏教がわかって救われるのではないのです。自分がわかって救われるのです。でも自分をわからせてくれた仏教はわからん。わからんからこそわかろうとする。それが求道です。
でも仏教は私がわかったつもりになって掴んだものをそうではないと破ってくれるものが内在している。だから救われ続けるのです。わかってしまったら救われないのです。
※もちろんわかりやすい方がいいとは思います。でも基本的に仏の覚りとは言語表現できないものなのです。ギリギリまで言葉を尽くしても紙一重のところで表現できない。その紙一重が大事なところであり、魅力でもあると思います。
本来は語れないものであるため
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
誠に釋智篤様のおっしゃられますように、悟りの境地は、直観的なものであるがゆえに、本来は語れないものであるものを、語ろうとすれば、するほどに、どうしても真理から遠ざかってしまう(戯論)というパラドックスを抱えてしまうことになるため、難しさに拍車をかけているのであります。
また、仏典における仏説も、真理の面を何とかして語ろうとして述べた「了義」と、真理へと向けた方便として語られた「未了義」とがあるため、それを後代の者たちがあれやこれやと混同してしまっての解釈的混乱、こじつけ的混乱があるのも、尚、その理解の難しさに拍車をかけてしまっているのでもあります。
真に仏典から如来、悟りの真意を理解するためには、二つの真理としての「世俗諦」と「勝義諦」の差異をしっかりと理解した上にて、仏典の「了義」「未了義」を正しく選別することが必要なところとなります。
そのため、色々と難しいのはやむを得ないところにはなりますが、丁寧に、慎重に、批判的、合理的、論理的にも分析しつつに、理解を深めて参りたいものとなります。
頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
わざとではないと思いますが、、、
確かに仏教は難しいですよね、でもけっしてわざと難しくしているわけではなく、そもそも言葉で説明できない真理を何とかして説明しようとした先人の足跡だと思えば、味わい深いものに思えませんでしょうか?
ハスノハさんがどの程度仏教に精通なさっているかはわかりませんが、私自身は全てのお経を読んだわけでは無いですし、とてもでは無いですがお釈迦様が伝えたい真理を理解出来ているとは言い難いですし、実践なんて尚更の事です。
一生勉強です。
質問者からのお礼
本来、言葉では表現できないところを、必死に必死に、表現してくださっているのですね。
とても、ありがたいことですね。
ありがたいです。
お時間を割いて、貴重なご回答をしてくださり、本当にありがとうございました。