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参禅の作法

回答数回答 5
有り難し有り難し 50

独学で仏教を学んでます。
しかし、過去の名僧の書物を読むのでは、哲学で終わるような気がしてきました。
お寺にご縁はありません。
宗派には拘りませんが、じっくりお話しする中で、仏教を学びたいです。

例えば、禅で言えば、「実践徳目」と云われるように、実践が伴わなくては、仏教学で終わるので意味がないと理解してます。
問答と言うより、「分かったつもり」で「浅い」自分の仏道の妄想を叩き潰して、導いてくれるような方と出会えたらと思ってます。

どのようにしたら、良い師に会えるか、どのようにしてお願いするのか、全くわかりません。
アドバイス頂けましたら幸いです。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

参禅は自己そのものに参じる

道元禅師の言われるように「正師」を得ずんば学ばざるにしかず、と。
きちんと導き先が明確になっている僧侶の下で参禅しませんと、知識をためる旅で終わります。決着がつかないのです。
どうなればいいのかがわからないからでしょう。
何をしていいかわからない。
方向性が見えない状態。
仏道とは、自己を明らめる道です。
仏教・禅という事に用があるのではない。
裸一貫で仏教のブの一字もなかったお釈迦さまが完全手放し、一切何も持たずに、自己をして何もなさなくなった。深く般若波羅蜜を行ずるとは、自己をして為すことなからしむること。
人が仏教を求めるのは手に入れようとするから有為になる。
本当に悟りが欲しかったら、本当に求める心すら忘じて無所得・無所悟の姿勢で徹底して、自分に何もさせんことで明らかになる。考えを持ち込んだら非思量・不思量にならない。
参禅の始まりは不思量です。思考を離れた自己の本来の寂黙が修行の始まり。
自身の活動、能動的な活動、為すことを無くしていけば、必ず❝全自動で❞明らかになるようにできているのが人間というものです。
曹洞宗でしたら、飯田トウイン老師、井上義衍老師、井上貫道老師の流れの方が一番はっきりしていると思います。
その人の教えを学ぶのではない。
その人の説いているところは自己というもの、法というもの、自己の本来のすがた。
それが仏教なのであって、世間の言う「仏教」というものはジェネリックのような後発薬品。仏教文化なのではないでしょうか。
だから、いくらやっても手ごたえがないのでしょう。
モノを学ぶにしても、学び方ひとつ間違えれば、トンデモナイところに向かう。
仏教を学ばせる師匠は邪師です。
自身をみつめさせ、自身の作用、ありように目を向けさせ、そこに人間の見解の生ぜざるトコロを明かにさせる者がマトモな指導者です。

悟っても悟らんでも世の中の腐敗は変わらん。
菩提心の無い悟りはクズ。
さっさと悟って仏法を明らめて世のコヤシとなるべく、菩提心を急いで発願して無垢清浄、智慧、慈悲の種まきせんと気がついたら何もできんじーさまですじゃ。

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おきもち

どのようにしたら良い師に会えるか?
足を運んで根気よく探すしかありません。お祖師さまがたも、海外留学も厭わぬ覚悟でひたすらフットワークを使いました。

どのようにお願いするか?
お互いに一番簡単なのは、坐禅会のような開かれた場に参加することです。そのような会は大体お檀家さん以外の参加も歓迎なので、普通に申し込んで普通に参加すれば自然とコミュニケーションできます。
もっとグイグイ行けるなら、アポ取って会うこともできます。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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念仏修行に興味があれば、連絡ください。

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おきもち

遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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皆さんの言うとおり行脚に限る

私も自分のお寺の座禅会に参加された方に、色々な座禅会めぐりをすることをお勧めしています。
良い座禅会があったら教えてね、私も参加したいから、って言っています。

また、座禅だけではほぐせない疑問のために、座禅の後に居残り会話をしています。
状況に応じて、お茶を飲みながらとか、酒を酌み交わしながらやっています。

宗派によってではなく、お寺のお坊さんの個性に応じて様々な座禅会や宗教活動をそれぞれにされていますので、行脚してみてください。

とくにハスノハのお坊さん達は意識の高い方ばかりと感じますので、このサイトを参考にして近所から巡ってみてはと思います。

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おきもち

人生の転機になる「一転語」をあなたに。 ハスノハで返信しきれない内容...
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仏教について勉強されていることは良いことだと思います。さらに実践ができたらもっと良いですね。
先ずは関東在住のハスノハの回答僧さんを順々に訪ねてみてはどうでしょうか?

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

丹下禅師様
ご回答、ありがとうございます。
確かに、不思量以上の安穏は無い気がします。
枝葉末節に囚われて迷わぬための、最善が座禅のように思いました。
お寄せ頂いた文章、今一度しっかり考えてみます。

大慈禅師様
ご回答、ありがとうございます。
私は、テーラワーダと曹洞、臨済宗の禅に興味があり、両輪のように思っています。
曹洞禅師とテーラワーダ、お話を伺ってみたいです。

遠藤和尚様
ご回答、ありがとうございます。
念仏修行にも、興味があります。
目に映るだけで元気が出そうなホームページ、今夜ゆっくり拝読させて頂きます‼
ご縁に感謝致します。

守屋禅師様
ご回答、ありがとうございます。
究極には縁なのかなと思います。「至らない師の下には、至らない弟子が集まるけど、至らない自分が悪い。」けど、ミリ位は導いてくれないと、至らない娘とに気付きすらせずに、終わる怖さ。
行脚しかないんですよね…

三宅和尚様
ご回答、ありがとうございます。

関東、行脚してみます!

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 34
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