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神はいらっしゃるのでしょうか?

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初めまして、クラウディアと申します。

私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。
実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。
私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。

目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。
例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、
そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか?

そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私にはいますよ。

クラウディアさんにとって
それが必要なのか必要でないのかが
重要だと思います。

『神はいません。』

と私が言ったとしましょう。
そう言った時点でですね、
私はすでに『神』を想定して作り上げて
それを「いない」と言っているだけに過ぎない。
ということになると思います。

そう思いませんか。

信じる、とおっしゃいますが
ほんとうにいるのなら信じる必要はないですね。
いるかいないか分からないから信じるということになるのです。
「私は富士山があると信じています。」と言ったところで
「いや、実際あるから。」と言われてしまうでしょう。

ということは
神も亡き人も、その人の生きる世界のなかでどのように想定され
そしてどのようにその人の生き方を支えていくのかがたいせつになってくるのだと思います。
すなわち、クラウディアさん。
あなたは生きていますが、どのように生きていきたいか、あなた自身だけに見えている、この生きている世界のなかで「神」が、「亡き人」が、どのような存在であってほしいのか。
そしてそれは必要なのか。
いよいよ考えなくてはならないと思います。

現に、亡き人はもうすでに「いない」はずなのに
クラウディアさんは今もここでこうして「亡き人」に思いを馳せています。

それはやらなくちゃいけないのか。べつに信じれないのなら信じなくてもよいではないですか。

私でしたら
目に見えなくなったものも
耳に聞こえなくなったものも
肌で感じ取れなくなったものも
きっとこの世界のどこかに散ったのだろうと
そのように信じているから勝手にしていますけれど。

亡き人がこの世にいないとするならば
では、生まれる前はその人はどこにもいなかったのか?

そうは思えません。

私たちはみな
始めも知れぬほど、長い長い時の中を世界とともにあって
たまたまこの現代、ひとりの人間としてかたちを借りて出てきたんだろうと。
それなら、この世界諸々含めて「神」と呼んでもいいな、と思っています。

ただし、それは私自身から見えている世界において、です。
自分の心に関わってくる大事なことなので
お線香でもお水でも、「世界に『お供え』する」心を大切にしたいのです。
お供えするという、その生き方が根拠なのです。
神がいる、というのは「私の生き方」を根拠にしているのであります。

ご参考いただければ幸いです。

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吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように

仏とはブッダ「真理に目覚めた者」という意味であり、地球上のブッダであるお釈迦様は2600年近く前に80歳で亡くなっています。
しかし、ブッダが説いた教え(悩み苦しみをなくすテクニック)は、仏教徒一人ひとりの心に生きています。
仏教は、目に見えないものを信じられない人にとっても信仰が可能な教えです。
生活習慣を正し、瞑想で悟りを目指すことや、無常・無我・苦などの真理を学ぶことは、神様を信じられなくても実践できますからね。
なので、見えない存在を信じられなくてもかまわないのですよ。
ただし、仏教でも輪廻転生、天・梵天などの神々の存在、他の宇宙(浄土)におられる仏様の存在は説かれています。
お釈迦様が悟ってブッダになったとき、お釈迦様は誰にも悟りの教えを説くつもりはなかったのですが、梵天という神様に懇願されて、お釈迦様は教えを説く決心をしたと伝承されています。

小沢健二さんというミュージシャンの歌詞の中に、
「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」
というフレーズがありました。
あの世を信じる宗教も、死ぬための教えではなく、生きる勇気をくれる教えです。
日本の仏壇は死者の供養とセットになっていますが、本来は仏像などを拝んで仏様を思い出す場所です。
たとえば、亡くなったお釈迦様の像を拝んでお釈迦様のことを思い出すのです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

迅速なご回答をありがとうございます。クラウディアです。
いるのか、いないかわからないから信じるということになる、というお言葉にはとても納得させられました。
これまではいつも自分の人生に絶望ばかりしてきましたが、よく考えるとこの現代、この瞬間を生きているということには何か意味があるのかもしれないと思えてきました。
そして亡き人はもうこの世にはいないかもしれませんが、また別の場所に存在しているのかもしれません。私はそう信じたいと思います。
またこれからは、ただただ仏壇に向かい合うのではなく、いつもお世話になっているこの世界にお供えするということを胸にお線香をあげようと思います。
自分にとっての神という存在、亡き人の存在について、今一度考える機会をくださり本当にありがとうございました。

迅速なご回答をありがとうございます。クラウディアです。
以前から仏教には興味がありまして、お釈迦様のお話などやさしいご解説に感謝致します。
これまで私は、信仰するにはまず神を信じなければ…と悩んでいたのですが、生活習慣を正し、瞑想し、そして真理を学ぶことは仰る通り、神の存在を信じる前から実践可能かもしれません。
過去には生きる勇気を失いかけた時もありましたが、信仰はその生きる勇気につながるのだと思うと、もっと仏教のことを知りたくなりました。
(また小沢健二さんの歌についても調べてみたくなりました。)
そして本来仏壇はお釈迦様を思い出すため…拝むためのものだと考えると、仏壇へ向き合う姿勢も変わります。
色々な気付きをお与えくださり本当にありがとうございました。

「仏教全般」問答一覧

良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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