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子供が死にたいと言います

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4月で小学3年生になる長男の事です。

以前も相談させていただきましたが、長男がふとした時に「僕の人生は良いことがない」「僕は生きてる意味がない」と言っていました。
お坊様からのご回答を聞かせてあげたり、私からもあなたは生きていていい、生きていてほしいことを何度も伝えてきました。

ですが今度は「死にたい」と言うようになりました。
友達に時々からかわれたりはしますが、先生に間に入ってもらいその都度解決してもらってきました。

いじめで悩んでいるというよりは、発達障害や長男の性格により、集団行動が苦手なことや自分から友達の中に入っていくことができない、他の子が普通にできていることが自分にはできない、それにより怒られたりする、家以外の居場所が見つからない、といったことが私の見る限りですが原因かと思います。

まだ8歳なのに、死にたいなんて私の力が足りないばかりに辛い思いを軽くしてあげることができず、私もどうしてあげたら良いのか分かりません。
お坊様、私たち親子にお力をお貸しください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

文字に頼らない。ハートに訴えかけること。

子供が死にたいというからには何らかの理由があるはずです。
それをお母さんが引き出させないという事は、お母さんだから言えないわけがあるかもしれません。第三者の支援が必要だと思います。
家族だからいいづらい、普段の子供との関わりのそこには関わっているともいえます。
お二人で信頼できるお寺さんに「ご相談」をお願いしに行ってみるといいでしょう。

生きるか死ぬかの問題にメールや文字のやり取りはほぼ時間の無駄です。善は急げで即、行動あるのみです。

死にたいというメッセージはより良く生きたいというメッセージでもあります。
イヤなことが無ければ通常死にたいなどと言わんでしょう。
学校のいじめか、
ならいごとや塾が負担になっていないか、
子供としてもっと遊びたいのに拘束や管理されていないか、
ご自身の子供への接し方にも原因があると思った方がよいでしょう。
また、食生活はどうでしょうか。
コンビニ、スーパー、ファーストフード、外食の食材の大半は酵素が死んでいます。
腐らない食べ物は食べ物ではありません。
さしすせそ(砂糖・醤油・ス・醤油・ミソ…みりん、味噌汁のだし・めんつゆ)など化学調味料に頼っていないでしょうか。
昔の人間がやっていた食生活から外れると人間は「不自然な」症状が起きます。
過敏になり過ぎない程度に見直すべきです。
手作りではない、レンジ調理は危険です。電磁波によって物質が別物に変わります。

生きるという事が問題なくなるには、食べ物が基本です。
次に人為的ではないという事。
拘束や過干渉、監視されること、自分のありのままの存在を否定されるようなこと。
そういうところも見てあげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

御一緒にいろいろな体験をさせてあげて下さい…

 お母様、お子様のご心中をお察し致します。
 8歳のお子さんが死にたいと発するそのお気持ちを想像すると、胸がつまります。
 まず、御自身の感情を変えられる(良い方向へ、また悪い方向へ)のは、自分自身だけだと伝えてあげて下さい。また他人と自分を比べないことです。自分は自分です…人との優劣で憂いても、何の意味も変化も無く、ただ自分が苦しいだけです。
 まず、息子さんが好きなことを、それだけをさせて上げて下さい。今 特にないようならば、一緒に探して上げて下さい。いろいろな行動をし、様々な経験を積ませて上げて下さい。そこから必ず何かの発見があると思います。
 お母様が御一緒に出来るだけ、外に出て下さい。散歩でも良いのです。また外出が難しければ、一緒に本を読んで下さい。世界遺産の映像などをご覧になって下さい。
 生き方に正解も、近道もありません。だからどう生きたって良いのです。
 あなた方を仏様は見捨てませんよ。息子さんを一人子として慈しんで下さっていますよ…。

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おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございました。
色々気をつけなければと思いました。
息子も死にたいと言わなくなり、少し安心できたところであります。
そしてお礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

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