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我が在る故に欲が生まれる。
質問読ませていただきました。
仏教で「我」について明確な定義があるのかどうか、浅学な私にははっきりとはわかりません。
ですので、私見を述べさせていただきます。
「我」というのは「自己」であり「自分」であります。つまり自分の存在そのものです。
ですので、「我」があるから「欲」が芽生えてくるという関係になるのではないでしょうか。
たとえば「我を通す」という言葉は、「自分という存在や意見を認めさせたいという欲を押し通す」というように解釈できるでしょう。
また、「我利我利」「我利私欲」との言葉も、「自分という存在を利する為に、欲を生じる」という現象に由来する言葉であります。
このように「我≒欲」というよりは「我→欲」という関係の方がしっくりくると思います。
理屈上「欲」を消し去ることはできたとしても、「我」という存在そのものを消すことは不可能ですから。
どちらにせよ、欲望のままに貪ぼったり、我を押し通すのではなく、「自利他利」の精神で人生を歩んでいくことが大切なように思います。
何か参考にしてみて下さいね。
「五蘊仮和合」
仏教好き様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「我」とは、「私」、「自分」などと同じものと考えれば、「自分を自分足らしめているもの」ということですが、あくまでも、それも、「五蘊仮和合」として、色々な要素としての色・受・想・行・識などが集まってできているもので、では、どれが一体、「我」、「私」、「自分」なのかと申しましたら、「これだ」と言えるような実体が、実はどこにも見当たらないのであります。
そんな見当たらない「我」(という実体)に囚われて、必要以上のものを求めようとするのが、「欲」であると言えるのではないだろうかと存じます。
その「欲」も全てが悪いというわけではなく、善い欲と悪い欲を見極めていくことが必要となります。
そのあたりは、仏教における「戒律」が見極めの参考になるところであります。
「我」につきましては、実体としては成立していない「空性」ではあるものの、「縁起」として、つまり、この場合は、「五蘊仮和合」として成立しているものと考えるところとなります。
川口英俊 合掌