生まれてみたら 偶々人間だった、それだけのことなのに...
私は小学六年生の時の日記に
『人間は そろそろほかの生き物たちに恩返しをする時代にならなければおかしい』と書いていた者です
この、根の深い痛切な感覚には、その後は自ら強い麻酔を打ち続ける思いで何とか半世紀ばかり長らえてきたのですが、8年ほど前から、その麻酔もすっかり効かなくなってしまったようで
今や、人類の殆どあらゆる所業が、私には受け入れ難いものになっています
他の天体から見たなら、何千万種もの生き物の中、一種族だけがこれ見よがしに繁茂している星なんて、なんと残酷な・・破滅が近いな・・なのでは?
3/27にもお書きしましたが
現在、人類が行き詰まっている 大もとの根っこにある大問題は
我々の存在も《この星の成分の欠片(の一瞬の姿)》であることを忘れ捨てたような、はち切れんばかりの傲慢さであると思えて仕方ないのです
きれいな夜景..? この星の命である「表土」がぐちゃぐちゃにされて..としか、私には見えず.. (癌細胞が光っているようにすら見えてしまいます)
生命に満ち満ちた、緑深きこの国の山々にゴルフ場..?
この星の生き物の一員として、正気の沙汰とは思えません
(家を建てるだけでも夥しい生き地獄が発生しているわけで..
地鎮祭の意味も、もはや茫漠として..)
人間だけが快適な空間へと破壊が進む街なかでは、縁の下という空間は消え、水を飲める場すら潰され...
苦痛に喘ぐものたちの悲鳴を聞く耳もなく..
更に、惨殺という過去の真事実を忘れたのか「〇〇危惧種」などとは どの口が..と、苦しすぎて、耳にも口にもできない事象が日常に溢れています
ほんの0.何%の 極めて幸運な動物に対して「かわいい・癒やされる」という言葉が出てくる感性が、理解不能です
私は(“奇跡の一本松” よりも、更に幾重もの偶然の結果、何とも有り難いことに)
【生まれてみたら、偶々人間だった】
それだけのこととしか思えないのです
何十世代も語り継がれてきた口承文芸の中には、たいへん大切な
《我々は大昔から、ほかの生き物たちにどれほど助けられてきたことか..その感謝の気持ちを忘れてはいけない》という深い心が伝えられてきたものと私は思っています
かつて「日本昔ばなし」というTV番組の主題歌 “いいないいな人間ていいな” との歌詞を耳にして愕然としました
これは全く真逆なのではないでしょうか?
やはり12歳の頃、宿題に(戦争に関する本の感想文)『他の生きものたちが悲惨な巻き添えになることが許せない…』とも書いていました 根の深すぎるこの感覚には、その後は自ら強い麻酔を打ち続け、文字に表すこともなく何とかやり過ごしてきましたが、近年はその麻酔が全く効かなくなった思いです (この上なく有り難い時空に生まれ育った者故の、井の中の独り言であるとも承知のつもりですが、丸50年間抱えこんでいる大荷物です) 我々の肉体も源を辿れば全て土、宇宙の成分の一瞬の表れに過ぎないのに… 日々の排泄物すら、水に流せばハイお終い……… そも、火葬の灰、土に還れているのでしょうか?
数世代前までの我々なら「動物実験」そんな酷いことをしてまで人間だけが利益を得ようなど、まさか…! 家一軒、建てるだけでも阿鼻叫喚の図。 かわいい・いやされる、などと言える感覚も解りません、痛すぎて
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
地球も宇宙も人間も共に生きれると良いですね
拝
共生は日々願う事が最も大事かと
そうする事で己の日々の生活が寄っていくものです
私は山深いところで人より沢山の動物に囲まれて育ちました
長い間自分が人間であるという事実より
動物でありたい
自然の一欠片でありたいと
幼くもそう願ったものでした
人間となった今も^_^
その思いは生きてます
私は自然農を研究し続けてまして
「おそらく初」と言われておりますが
無農薬でさくらんぼも作れるようになりました
暖房も近くの農家さんの老木になった果樹を利用し
薪ストーブで暖をとります
鶏が産んだ卵を頂き
作ったものが多ければ
物々交換したり
多過ぎればお金に変えます
節には山に入り山菜やキノコを学び必要最低限頂きます
カモシカや猿に一歩的に話しかける変態ぶりは子供の頃と変わりません^_^
一人でこういう大きな問題を抱えて生きるのは苦しく暗いものです
どうしようもない問題と向き合う時
真剣になってはいけません
解決できない問題はケセラセラです
本当に思っていれば考えるより行動を変えるべきです
もし土いじりに興味があれば「パーマカルチャー」や「自然農」をやっていたっしゃる方々などと交わると
良い共感やヒントがあるかもしれません
土は宇宙に繋がってます
合掌
想像して苦しむよりも実践してみてください
全生命に対する人間の有様についてのお考えは、まことにその通りと思います。
一方で我々は全く偶然に人間に生まれたわけではありません。生命は因果によって輪廻を繰り返しますが、我々が今生で人間の形で生まれてきたことには、まぎれもなく「因」があり、我々の今生の生命の形はその「果」です。
これは生命の形として、かなり良い線をいっているのです。
道元禅師は次のように言われています。
「われらは過去の善の因によって、なかなか生まれ難い人間として生まれた。そして、会い難い仏の教えに会うことができた。これは繰り返す輪廻の中で、実に稀有な幸福である。またとない好機である。そのような貴重な今生の生命をおろそかにして浪費してはならない」
「暗いと不平をいうよりも、自らすすんで明かりをつけなさい」という言葉はキリスト教の聖パウロの言葉だそうですが、仏教においてもその考え方に違いはありません。
人間は想像することによって自分の苦しみを増やします。
テーブルの上に垂れたお醤油を見て「あー、テーブルに匂いがついちゃう」「間違って、その上に手を置いたら、手まで汚れてしまう」「ほっておいてカビが生えたらどうしよう」等々と自分の想像によって、悩み苦しみが増えてしまいます。
この問題を解決するには、自分でこぼれたお醤油をふき取るのが一番です。
人間ひとりができる事には限りがありますが、それは誰にとっても、どんな生命にとっても同じことです。
全生命に対する人間の有様に疑問があるのならば、それについてあれこれ想像して苦しむよりも、自分自身は自分のできる範囲でより良い有り方を実践してみるのが、自己にとっても全生命にとっても最善の道だと思います。