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浄土真宗の教えについて3

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有り難し有り難し 54

おはようございます。
今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。

昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。

そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。

吉武文法様の御回答より引用
〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。

1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか?

「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか?

病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。

〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。

2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか?

本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。

文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

2019年4月21日 6:27

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無阿弥陀仏に救われ続ける

浄土真宗・お念仏の教えの救いとは何なのだ?どうなること?ということですよね。根幹の一番大事な避けて通れない所なのに何かモヤモヤしてすっきりしない…ということなのだと思います。

それは私もそうなのですよ。全然わかっているわけではないのです。

>本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もします

この感覚はすごく大切なものだと思います。

浄土真宗の教えを端的に言うなら「ただ念仏して弥陀にたすいられまいらすべし」ということですが、それは「念仏」が「まこと」なのであり、念仏にまでなった如来(阿弥陀仏)の心が清浄なのであって、この私の身や心が「まこと」や「清浄」になるわけではありません。
でも私に全く何の変化もないのであればそれは救いでも何でもないのでしょう。

しかし、それを救いとは「〇〇になること」「〇〇でなければならない」と断定的に言語表現するとどうしても矛盾が出てしまうのです。

「まこと」に触れさせていただき「まことならざる私」があきらかになり、それでも「その私を救う」という如来のお心によって「救われたという自覚」以上のものはそれこそそれぞれの味わいということになるのでしょう。
そしてその味わいも掴んで離さないのでなく、また教えに問い確かめていく。その歩みが救われて終わり、なのでなく、救われ続けるというものだと思います。

さて、この説明だけでは味気ないので言葉を尽くすと、いただいた病の例で言うならば、

まず浄土真宗の教えで病が治るわけではもちろんありません。では病を受け入れられるかというと、そういう心持ちになる時もあれば、やっぱり受け入れられない時もあるでしょう。しかし、「病が私が受けるべきものではない不当なものであり、排除しなければならないもの」という思いではなくなるのではないでしょうか。
それは「病を受け入れられる私もそうでない私もいつどんな時の私も、どれも全部私なのだ、私でしかないのだ」という私への頷きをいただくことでしょうか。
時には私が嫌な私もいるでしょう。それすらもやはり私。逃げ場のない私。その私を明らかにして包んでくださる教え・願いとの出遇い。私を私の姿に目覚ましめ続け、真理真実の方からはたらきかけ続けてくださる。

そういう動的な救いとの出遇いをいただくのが南無阿弥陀仏かなといただいております。

2019年4月21日 8:23
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

欲・怒り・怠け・プライドを癒してくれるか

私は浄土宗の者ですが、面白い質問なので横から失礼します。
難しく考えなくてよいと思います。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩のせいで苦しんでいる人が、南無阿弥陀仏に出会って、
欲・怒り・怠け・プライドのどれか一つでも弱まったり制御できたりする、苦しみが癒されれば、それで良いのです。
例えば、どんな悪人や罪人でも、あるいは身分や性別や人種などに関係なく、阿弥陀仏に救ってもらえると知ったなら、
ひどく自分を卑下していた人々や、他人から虐げられていた人々のプライドの煩悩が癒される。
「基本的人権」という概念さえなかった時代には、まさに画期的な救いだったはずです。
また、何かむかつくことがあったとき、例えば財布を落としたとか、そのときに、「財布を落とした人も落としていない人も念仏すれば往生できる」と思えたら、財布を落としたことが絶望的ではなくなり、財布を落として「嫌だ」という怒りの煩悩が癒されるかもしれません。
人によって感じるチャンネルは様々なのです。

2019年4月21日 13:12
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有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

吉武文法様
何度もご丁寧な回答本当にありがとうございます。文法様のお陰で長年の疑問をスッキリ解消する事ができました。

前にも申し上げました通り、どうもハッキリしない死後の別世界である極楽浄土。お坊さんに尋ねてみた所で「凡夫の考えの及ぶ所ではない。」や「私達は生きている間に覚る事は出来ない。」と言われてしまい

「じゃあ生きている苦しいままじゃないか。じゃあ仏教なんていらないじゃないか!」と考えた事もありました。

しかし、文法様の御回答を読んでいるうちに自分が思い違いをしていた事に気付かせて頂きました。

まだまだ浄土真宗の教えの全てを理解できたわけではないですが、文法様に導いて頂き、理路整然と道理を説いている仏教も優しい浄土真宗もあった方がいい。という風に思いが変わりました。
文法様に出会えて良かったと感じております。

長くなりましたが何度も質問に丁寧にお答え下さいまして、本当に本当にありがとうございました。

吉武文法様(追記)
書こうかどうか躊躇って一度はやめたのですが、やはり書かせて下さい。

文法様の「私もそうなのですよ。」という立場を超えた恐ろしい程の誠実さ、正直さ正確さに胸を打たれました。

文法様の様なお坊さんもおられるのだと思えるだけで、私にとっては充分過ぎる程の救いです。

願誉浄史様
ご丁寧な回答ありがとうございます。

浄史様の仰る様に、基本的人権すらない時代の人達や、煩悩を断ち切れず悩み苦しみの多い不器用な私の様な人間にとって浄土門の教えというのは非常に画期的だと感じました。

浄史様の御回答を読み、無理矢理にでも南無阿弥陀を現代語訳、超訳するならば、

「なんとかなる!」や「私がどんな惨めになろうとも阿弥陀様だけは見捨てない!」という様な表現になるのではないか?と感じました。

その様に考えて良いのであれば、阿弥陀様という優しい仏様を想えば、財布を失くしてトボトボと長い道のりを歩いて帰る惨めな私の心も少しだけ軽くなるのではないか?そんな気が致しました。

「浄土真宗」問答一覧

上司から一方的な注意

いままでの職場は規模が出かかったので、人間関係のトラブルは表に出ていなかっただけかもしれないですが、特になかった環境で働いてきました。仕事と割り切って働いていたので気に留めてなかったし、めんどくさい関わりたくないと思っていたからかもしれないですが。 転職をして今の職場に入って3年目に入りました。話す人とはフランクに話しますが話さない人とは淡白な感じになります。 私自身、10代のころいじめにあい人に対して積極的に関わりにいくタイプではないです。人見知りな性格だし初対面だと警戒心丸出しです。話す数を重ね慣れてくると話せてきます。フランクにいきなり喋りかけられると警戒してしまいます。土足でヅカヅカ来る人無理です。こんな私です。 去年の冬ぐらいから、部署の違う女性スタッフから、その人が在籍している部署を通らないと目的地にいけないので通っていたら、「Aくんがさ〜、Aくんにさ〜、Aくんもさ〜」と自慢なのか、私のAくんと言わんばかりに聞かされてました。毎度聞かされるので、フランクに話す人に聞いたら全然聞いたことがないと言われました。なので長く勤めている人に聞いたら、この2人はすごく仲が良いと知りました。交際してるんじゃないかと思わせるぐらい仲が良いと。だから、私に対してAくんに近づくなと警告してんじゃない?といわれました。また、女性側はリストカットをするぐらいメンタルがヤバく被害妄想があると知りました。へぇ〜って思い、女性スタッフとは関わるとめんどくさいことになるから極力関わらないようにしようと決めました。Aくんは部署が同じなので、仕事上の関わりはふつうに持っています。 それから、その女性スタッフとは関わりのあるときは淡白な態度で接していたら、無視をされていつも私に対しては怒っていて冷たいと私の直属の上司に相談したようです。そのあと、一歩的に注意をされました。あなたのやっていることはパワハラ・いじめだと言われました。反論もせずに聞き入れたのですが、腑に落ちません。なぜそこまでいわれなきゃならないのかわかりません。言ったもんがちの風潮な職場だと痛感しました。 私はこれからどうしたらいいのかわかりません。ひとまず普段通りに仕事もしているのですが・・・転職の二文字が頭をよぎっています。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

浄土真宗の自分の解釈について間違ってると言ってほしい

ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです

有り難し有り難し 55
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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

有り難し有り難し 44
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浄土真宗の教えについて2

おはようございます。 前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。 吉武文法様の御回答より引用 〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。 〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。 かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。 そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。 という様な事なのでしょうか? どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。 それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして 「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか? もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 1

浄土真宗の教えについての質問

浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 1

勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

こんばんは 最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で 「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず 「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます 例を挙げると 1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている 「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。 即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある 教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる 信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない 2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか  3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう 勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります 法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは 間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか? 矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです

有り難し有り難し 31
回答数回答 3

浄土真宗の死後とは

私は浄土真宗です。 死んだら浄土に行くと聞いていましたが、南無阿弥陀と唱えるのは、死後のためではなく、今を生きるためだとも聞きました。 どうしたら念仏することで今を生きるという感覚になるのでしょうか。 死んだ後は浄土にいくのではないならどうなるのでしょうか。 病気でなかなかお寺で聞法できないのでよく分かりません。 浄土には病気が無いとイメージしていたのですが違うのですか? 生きている時「私は私で良かった、あなたはあなたで尊い」と思たらその心こそ浄土と教わったこともありますがうまくつながりません。 10年間以上、生まれつきの要因が大きい病気で体が思うように動かず、学ぶのも働くのも結婚するのも十分にできなくて、その間ずっと「どうしてうまくいかないの」「どうやったらうまくいくの」と考えてきました。 でも、すぐ死ぬ病ではないため、残りの人生おそらく何十年も あると思いますが、ずっと「どうして」と過ごすのかと思うと馬鹿らしくなってきて、段々、「考えて解決しないことなら考えるのをやめよう」「己の身体的限界を受け入れた方が肩の力が抜けてむしろ楽なのでは」という気になりました。 もうこれ以上は個人で考えて結論が出せるものではなく、宗教を学んで信じることで、余計なことに悩まず、残された力を使い、やれることをやるしかないように思い至りました。 それで急に浄土とはどんなものか、死後についてどう考えるべきか、知りたくなってきました。 健康のために具体的に食事睡眠運動に気をつけるのは最善を尽くせているので、その病気になった人にして体調はマシな方ではあります。 ただ、もう気持ちの面で嘆くのは嫌です。 教えて下さい。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 73
回答数回答 2

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