浄土真宗の教えについて3
おはようございます。
今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。
昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。
そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。
吉武文法様の御回答より引用
〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。
1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか?
「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか?
病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。
〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。
2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか?
本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。
文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
南無阿弥陀仏に救われ続ける
浄土真宗・お念仏の教えの救いとは何なのだ?どうなること?ということですよね。根幹の一番大事な避けて通れない所なのに何かモヤモヤしてすっきりしない…ということなのだと思います。
それは私もそうなのですよ。全然わかっているわけではないのです。
>本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もします
この感覚はすごく大切なものだと思います。
浄土真宗の教えを端的に言うなら「ただ念仏して弥陀にたすいられまいらすべし」ということですが、それは「念仏」が「まこと」なのであり、念仏にまでなった如来(阿弥陀仏)の心が清浄なのであって、この私の身や心が「まこと」や「清浄」になるわけではありません。
でも私に全く何の変化もないのであればそれは救いでも何でもないのでしょう。
しかし、それを救いとは「〇〇になること」「〇〇でなければならない」と断定的に言語表現するとどうしても矛盾が出てしまうのです。
「まこと」に触れさせていただき「まことならざる私」があきらかになり、それでも「その私を救う」という如来のお心によって「救われたという自覚」以上のものはそれこそそれぞれの味わいということになるのでしょう。
そしてその味わいも掴んで離さないのでなく、また教えに問い確かめていく。その歩みが救われて終わり、なのでなく、救われ続けるというものだと思います。
さて、この説明だけでは味気ないので言葉を尽くすと、いただいた病の例で言うならば、
まず浄土真宗の教えで病が治るわけではもちろんありません。では病を受け入れられるかというと、そういう心持ちになる時もあれば、やっぱり受け入れられない時もあるでしょう。しかし、「病が私が受けるべきものではない不当なものであり、排除しなければならないもの」という思いではなくなるのではないでしょうか。
それは「病を受け入れられる私もそうでない私もいつどんな時の私も、どれも全部私なのだ、私でしかないのだ」という私への頷きをいただくことでしょうか。
時には私が嫌な私もいるでしょう。それすらもやはり私。逃げ場のない私。その私を明らかにして包んでくださる教え・願いとの出遇い。私を私の姿に目覚ましめ続け、真理真実の方からはたらきかけ続けてくださる。
そういう動的な救いとの出遇いをいただくのが南無阿弥陀仏かなといただいております。
欲・怒り・怠け・プライドを癒してくれるか
私は浄土宗の者ですが、面白い質問なので横から失礼します。
難しく考えなくてよいと思います。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩のせいで苦しんでいる人が、南無阿弥陀仏に出会って、
欲・怒り・怠け・プライドのどれか一つでも弱まったり制御できたりする、苦しみが癒されれば、それで良いのです。
例えば、どんな悪人や罪人でも、あるいは身分や性別や人種などに関係なく、阿弥陀仏に救ってもらえると知ったなら、
ひどく自分を卑下していた人々や、他人から虐げられていた人々のプライドの煩悩が癒される。
「基本的人権」という概念さえなかった時代には、まさに画期的な救いだったはずです。
また、何かむかつくことがあったとき、例えば財布を落としたとか、そのときに、「財布を落とした人も落としていない人も念仏すれば往生できる」と思えたら、財布を落としたことが絶望的ではなくなり、財布を落として「嫌だ」という怒りの煩悩が癒されるかもしれません。
人によって感じるチャンネルは様々なのです。
質問者からのお礼
吉武文法様
何度もご丁寧な回答本当にありがとうございます。文法様のお陰で長年の疑問をスッキリ解消する事ができました。
前にも申し上げました通り、どうもハッキリしない死後の別世界である極楽浄土。お坊さんに尋ねてみた所で「凡夫の考えの及ぶ所ではない。」や「私達は生きている間に覚る事は出来ない。」と言われてしまい
「じゃあ生きている苦しいままじゃないか。じゃあ仏教なんていらないじゃないか!」と考えた事もありました。
しかし、文法様の御回答を読んでいるうちに自分が思い違いをしていた事に気付かせて頂きました。
まだまだ浄土真宗の教えの全てを理解できたわけではないですが、文法様に導いて頂き、理路整然と道理を説いている仏教も優しい浄土真宗もあった方がいい。という風に思いが変わりました。
文法様に出会えて良かったと感じております。
長くなりましたが何度も質問に丁寧にお答え下さいまして、本当に本当にありがとうございました。
吉武文法様(追記)
書こうかどうか躊躇って一度はやめたのですが、やはり書かせて下さい。
文法様の「私もそうなのですよ。」という立場を超えた恐ろしい程の誠実さ、正直さ正確さに胸を打たれました。
文法様の様なお坊さんもおられるのだと思えるだけで、私にとっては充分過ぎる程の救いです。
願誉浄史様
ご丁寧な回答ありがとうございます。
浄史様の仰る様に、基本的人権すらない時代の人達や、煩悩を断ち切れず悩み苦しみの多い不器用な私の様な人間にとって浄土門の教えというのは非常に画期的だと感じました。
浄史様の御回答を読み、無理矢理にでも南無阿弥陀を現代語訳、超訳するならば、
「なんとかなる!」や「私がどんな惨めになろうとも阿弥陀様だけは見捨てない!」という様な表現になるのではないか?と感じました。
その様に考えて良いのであれば、阿弥陀様という優しい仏様を想えば、財布を失くしてトボトボと長い道のりを歩いて帰る惨めな私の心も少しだけ軽くなるのではないか?そんな気が致しました。