浮世(憂き世)
昭和初期の演歌というか流行歌の歌詞には浮世(または憂き世)と言う言葉が頻繫に使われました。
輪廻転生が真実となれば、この言葉は重要な意味を持ちます。
輪廻転生即ち心が永久に生き続けるということは、この世に死がある限り心は現世と来世(後生)の二つの環境を持つことになります。
到達が極めて困難な涅槃に依る智慧の完成を除けば、心は二つの環境のどちらが真実の住処であるかと言うことを考える必要があります。
当然死を伴う現世より来世が真実であることは明確です。
そこで現世に憂き世と言う言葉が使われるのだろうと思います。
現実に現世を生きることは大変です。
空気と水は兎も角、食料は殺生を伴うものが大部分です。
五戒にある如く殺生は悪の根源です。悪人でなければ生きることはできません。
しかし生きる為の必要悪ですから、ここから弱肉強食の世界が広がります。
現在の世界情勢の表れもこれが根源でしょう。
死ねば殺生は無くなりますが、心がそのままでは、再び転生が繰り返され、殺生を余儀なくされます。
現世では来世に留まるべく心の修行が必要になります。
これが仏教ではないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの住むところから大阪はどちらの方角にあるでしょうか?おそらく西ではありませんか?しかし私の住むところから見ると大阪は東にあります。同じ大阪でも住むところによって方角が違うのです。
仏教も同じです。仏教には聖書がありません。何故でしょうか?それは人それぞれの立っているところが違うから、生まれ持ったものや今の状況が違うから、仏教つまり仏を目指す為の教えも当然違ってくるのです。だから仏教には聖書のような厳格に固定された教えが無いのです。
あなたの仏教感についてですが、それを私は肯定も否定もしません。何故なら私とあなたでは立っているところが違うからです。
あなたがあなたの考える仏教に基づいて人生を全うし、それが良き人生であったなら、あなたの仏教は確かにあなたにとって正しかったと私は思います。
私は、そしてハスノハの僧侶はあなたを応援しています。
ただひとつだけ注意して貰いたいことがあります。それは、他の人にあなたの仏教感を押し付けないことです。それは争いの火種になります。
それは釈尊の望んでいないことです。
「これが仏教だ」というニュアンスで話すよりも、「私にとってはこれが仏教だ」というニュアンスで話す方がよいと思いますよ。
あなたのとっての心の修行が益々進むことを願っております。
質問者からのお礼
三宅 聖章 様 ご回答を有難うございます。
「私にとってはこれが仏教だ」と言う認識は持っていません。
どこが「私にとって」となっているかご指摘くださればありがたいです。
私はお経が読めませんので、「浮世」のように世間に膾炙されている仏教語から類推しています。
この質問も「厭離穢土 欣求浄土」から類推しています。
三宅 聖章 様はこの世が穢土であることという認識はお持ちではないですか?
浄土があの世にある事は常識ですね?
浄土を欣求するのは、この世よりあの世に重点がある事を示していませんか?
妻帯禁止や精進料理も穢土に関係していると思います。
このことを「私にとってはこれが仏教だ」と断らなければならないのでしょうか?
仏教に聖書がないという意味が解りかねますが、仏教には神がいない代わりに真理と論理で教理が構築されています。
この教理については共通認識で良いのではないでしょうか。
教理を実践する方法は、日本仏教のように多くの宗派に分かれているので、「私にとってはこれが仏教だ」と主張しても差し支えないと思います。
富士山に登頂する登山道が多数あるように。