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即心即仏

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有り難し有り難し 27

ここでいう「心」は世間でいう心と違うようなのですが、どのようにとらえればいいですか?信心とか菩提心のことでしょうか?

ご教授いただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

下々衆生さま

白隠禅師の坐禅和讃の中に、「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、
水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし」という一節があります。
私たちは仏様と同じ一つのものです。ちょうど水と氷のように状態が違う
だけで同じ一つのものですと言われています。
仏様は水のように執着なく様々な形になれる柔らかさ、自由さを持って
いますが、私達は氷のように固まった不自由な状態にあるということです。
氷とは、これはこうゆうこと、こうしなければならない・・・
と物事を意味づけ、決めつけ、限定してしまっていることを表します。

私達は一人一人違います。姿かたちも得意なこと・苦手なことも考え方も
感じ方も望むこともみんなそれぞれです。
一人一人違った世界、生き方、在り方、命の流れがあります。
その人自身の世界、在り方、命の流れを「ほとけ」と呼んでいます。
「日日是好日」一日一日は善き日です、という言葉がありますように
命の流れは善き流れです。ただ私たちはどうしても自分の好き嫌い、損得、
良い悪いなど分別、選り好みをしてしまい、流れから離れ、遠ざかり
苦しみや問題を作り出してしまいます。ですので分別、選り好みを
しなければ元の善い流れが現れてくるということになります。

分別という人為、作為、手をつけることを離れた状態が「仏」ということに
なりますので、即心即仏の心とは、分別、人為・作為を離れた心、意識の
状態と言っていいと思います。

私達は仏様と同じように完成されたもの、円満なものとは中々思えません。
どうしても何か足りないものがあると思ってしまいます。
足りないという思いは自動的に何かを求め、探し始めます。
自分に無いと思っているわけですから、自分以外に目を向けます。
ですけど本当のことも、答えも、豊かさも在るのはすべて自分の中ですから、
外に向かって探すといつまでたっても見つからないことになります。
ですので私達は仏様と同じ一つのものということ、私達の中にも
大きな力、働き、内容が確り備わっているということを
信頼していく必要があるのだと思います。

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有り難し
おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。
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そのままの心がそのまま人間本来の静けさ

ここでいう静けさとはちょっと心をしずめて黙ってみる程度のものではありません。
そこを体で理解するためにこそ坐禅というものがあり、修行というものがあるのです。
それがいらなければ教科書や辞書で読んだらわかるという程度。
レシピは読めてもプロの味は出せないものです。
現代は便利な時代です。
何でもデジタル、ネット、指先ポチでわかろうとせず、自分で足を運んで真剣に求めてみてはいかがでしょう。
言葉でいうのは簡単です。
いくらでも言葉というものは表現が可能。
では、それを読んだ人がみんな悟れるかと言ったらそれは人それぞれ。
ここに言葉で

「仏」「心」「仏心」

と書いてあります。
それを読んだときに起動する脳内ツールは思考OSなのです。
「心」とはなんだろう。
「仏」とはなんだろう。
それを求めても求めるツールが思考であるからわからないのです。
思考や言語活動では「わかることができない」領域があるのです。
濡れ手に粟ということがあるように、思考の水で濡れている頭のハンドではつかめないものがあるということ。
坐禅して禅定という様子を明らかにしたうえで初めて手ごたえのある実感があるのです。
そこは坐禅をして坐禅がきちんとした坐禅になればハッキリします。
ちなみに坐禅とは坐禅を「しよう」という能動的な意思・心の姿勢が休まったときに初めて禅定になります。

人間は脳内に思考というエフェクトが機能するとクリーンなトーンが体感できないのです。
ここでいうクリーンなトーンということが心、仏ということではありません。
そこは自分で実証する必要がどうしても出てくる。
ここは入り口、きっかけです。
ぜひ、ご自身で本当に坐禅を通じて仏法を明らかになさってみてください。
即心、即仏。
即心是仏、即身是仏。
今、人間の見解を離れ切っていた心はそれがそのまま自己の真実相、仏です。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

法演様
回答ありがとうございます。

もとは同じ水なのに雨と見れば気持ちが沈みますが夏の海と見れば気持ちが弾みます。
この分別。
分けるから足らないと思い外に求める。それで苦しむ。
足るを知るということでしょうか。
仏様は満ち足りているから他に求めない。
この仏様と同じと。
難しいですが頑張ってみます。
ありがとうございました。

丹下覚元様
回答ありがとうございます。

先のお礼でこねくり回した思考をバッサリ切られた感じがありますが
これも入り口と、ちゃんとお寺に行こうと思います。
ネットや本で知った気になるのはいけませんよね。

座禅も説法も真似はできますがそれは真似で本物ではありません
師に教わってこそ正法ですよね。
思えば近場に総持寺がありますので行くだけ行ってみようと思います。
ありがとうございました。

お忙しい中ご回答ありがとうございました。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

有り難し有り難し 9
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