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人間は何のために生きるのか

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人間は何のために生きるのでしょうか? 

私の大好きな漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の第3部で、DIO(ディオ)は、『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』と答えています。

なるほど確かに。人間の営みにおいて、この言葉はすべてに当てはまるのではないかと思いましたが、なんだかこの言葉に当てはめてしまうと生きる希望をもてないというか、元気に前向きに生きようという気持ちにはなりません。

この質問に対して、前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉が欲しいです。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何もしないでも おられる人 となれ

これは、禅の教えで、仕事も何もしなくていいという意味ではありません。

・心が、あれこれ、動いてもそのままでいられるようであれ。
・どんな事が起こっても、そこに思いを起こさずに処せる力量を持て。
・黄檗希運禅師「の『伝心法要』に、
(意訳)
「出来事に処して、一念も思いを起こさずに、そのままでおられる心のありようを達道(悟り)という」教えがあります。
この意味での「何もせんでもおられる」という事です。

「何の為に生きるのか?」
学生時代、この問いに満足のいく答えが導き出せず、ノイローゼ気味になって自死も試みようとした時期がありました。

最終的に救いになった教えは、
「理由づけで満足するな」「意味付けに酔いしれるな」「そのままで居れる人となれ」
という教えでありました。

人はとかく理由付け、意味付け、意義づけをしたがる生き物です。
立派な理由、大義名分であればある程、納得、合点は致します。
こういう行為は何か意義があるようで、獲得感に満ち溢れ、楽しい事なのです。
ひねくれ者の私はそれでは満足しきれず、禅の門をたたきました。
哲学や心理学好きで理由付けが大好きだった私。
禅の道場では理屈っぽさが抜けず苦労いたしました。
10年の修行の中、老師との問答を重ねる中で、
「お前さんは、いつも理由付けをしたがるな」
「それは理屈にすぎない。いくらウマイことを言ってもダメだ」
今までの見識がまるで役に立たなかったのです。
「えっ?生きる意味や意義を見出し、だれもが納得いくように的確に表現することが、仏道の修行ではなかったのか?」
禅の修行の最高峰は真逆でした。
その答えは物事に意味をつけたり、理由付けをする以前の本物のナマの世界を味わうことだったのです。自分が悟りの味を舐めれば、チャンとわかる実証の世界。
舐めないうちに悟ったフリして味を想像でこうだああだと語っても老師には嘘がバレてしまう。
ある一面から申せば、人生の終局目的は「欣求菩提、利益衆生(悟りを求め、その心を多くの人に広めること)」という面もあり、確かにその通りなのです。
ただ、そういう表現が「成り立つ」というだけ。
理由付けや、意味付けで、何か分かったような気になること無く、
「何もせんでもおれる様であれ」
この真意が分かれば、
それ以上の安心感、確信がもたらされることでありましょう。

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「まこと」を求める

このご質問は「ついに来てしまったか」という印象です。力不足ですが、私の思うところを書かせて頂きます。

まず、さすがDIO(というか荒木飛呂彦さん)、なるほどと思わせるひと言です。これも充分、ひとつの答えですよね。

さて「人間は何のために生きるのか?」と問えば十人十色の答えが返ってくると思います。
私が聞いた中で一番しっくりきたのは、浄土真宗本願寺派の中西智海師(亡くなっておられます)の「人間は、まことを求めて生きるもの」というお言葉でした。
言い換えれば「人間は『何のために生きるのか』それを追い求めて生きる」ということだと思います(ちょっとズルい答えでしょうか)。

引用が続きますが、明治時代の仏教者、清沢満之師は「他の心の作用がたいていの場合、有限な事柄を対象とするのに対して、宗教心の方は、それと異なり、無限な事柄を対象にします。」と著書に書かれています。
やはり、追い求めるものをハッキリと表すことは出来ない、ということでしょう。

結局、ひと言で「何のため」とはなかなか言えないし、人それぞれでもあろうと思います。しかし中西師の「まこと」という言葉にご注目下さい。
人間は、目先の欲望などのために生きるのでは決してないのです。何か尊いものを求めて生きるのが、人間が人間たるゆえんではないでしょうか。

そしてそれを求める道は、経済でも政治でも科学でもなく、宗教なのだと思います。
私にとっては親鸞さまが説かれた仏道がそれです。
愛の太陽さんにとっての「まことを求める道」が見出されることを念じています。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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浦上師、川口師の「まことを求める道」、「悟りを目指すため」というお言葉で充分ですが、ありがたいご縁ですので私なりにお答えできればと思います。
私たちは必ず死というものが、やってまいります。これは、老若男女問わずおとずれ、いつ何時あるかわからない事です。その死というものを目の前にしたとき「満足な人生であった」と自分自身が思えるように"今"を生きているのではないかと思います。
そのために、人のためでも、自分のためでも、精神的なためでも何でも良いとは思いますが、何かのために、「~したい」という欲、煩悩とうまくつきあって生活させていただく、つまり、意味のある欲、「意欲」というものをもって、一日一日の生活をさせていただく事が自分自身の“何のため"がより深くなっていくのではないかと思います。

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人は人のために

愛の太陽 様
はじめまして。私の回答をさせていただきます。

人間は生まれてきたことにそれぞれ意味が存在します。
あえて「何のために」という言葉を使用しますと
それは「他者を幸せにするため」にあります。
あらゆる仕事の目的は同じことが言えると思いませんか。
自分がしたことで他者の役にたち、他者が喜ぶ。
決してそのような他者の姿を見て、悪い気がする人とはいないはずです。

また、その気持ちのつながりが今の世をより良いものに変えていけると信じております。合掌

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鈴木光浄
「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を...
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愛の太陽 様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

「人間は何のために生きるのでしょうか?」

仏教からの答えとしましては、「悟りを目指すため」となります。

『人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる』というのは浦上哲也師もおっしゃられておられますように、ある意味では仏教的な答えであります。世俗・世間の迷い苦しみを離れて、「大安心(あんじん)」の悟りの境地を得ることが、まさに仏教的な答えとなるからであります。

克服するのは、「無明(むみょう)」(根本的無知)・「煩悩」・「悪業」であり、「不安や恐怖」というものは煩悩に含まれるものとなります。

「有暇具足(うかぐそく)は得難く・・」とありますが、例えとして「一度にたくさんの豆を壁に向かって投げつけたとき、床に落ちずに壁にそのまま残る豆のように」とありますように、人間として生を受けるのは、実にまれなることであり、過去世からの善業や仏縁などの良い因縁により得ることができるものであります。

有暇具足とは、簡単には修行するのに適した境遇・条件が調っていることであります。天・人・修羅を三善趣、畜生・餓鬼・地獄を三悪趣として、この六つの境涯のうち、有暇具足を得れる人間だけが、悟りを目指して精進できうる存在であり、世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)にとらわれて無駄に過ごすことなく、すみやかに出離(この輪廻の苦の大海を厭い逃れたいと思う心)を起こし、次に菩提心(迷苦にある一切衆生を救わんとしての慈悲心より生じたる悟りを求めたいとする心)を起こして、確かなる仏縁の下で聞(教えを聞くこと)・思(聞いた教えを自らで分析・検証して理解を深めていくこと)・修(十分に理解した内容から瞑想や観想、善徳行を修めていくこと)と修行を一歩一歩進めることが望まれるのであります。

前向きに元気になるような、また人生の応援歌となるような、そんな回答や言葉ではないかもしれませんが、「いずれは悟りを得ることを目指して、今世でもできる限りに努力して、また、再び仏縁を授かれて、智慧の修習、善徳行の実践を積める境涯に生まれることができますように、共に頑張って参りましょう。」

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「生きる意味」問答一覧

私は何のために生きているのでしょうか

お坊さん、こんばんは。 心が千切れて粉々になって、誰にも頼れずしんどくなった今、ふとここの存在を数年ぶりに思い出して投稿してみました。 下手くそな文章でしたら申し訳ないです。 私は二十代の社会人の女です。 以前から仕事をしていて、同じようなミスが減らなかったり、そもそも間違いを見つけることが出来なかったり、そういった事で「やる気がない」「何度教えてもだめだ」と指摘を受けることが多くありました。 周りの人間に見放され、どんどん居心地が悪くなってうつ状態に陥り、病院に行ったところ、診断結果は「発達障害」と、周りからの圧力や叱責による「うつ病」でした。 今まで自分が何故上手く仕事が出来なかったのか、それは全て発達障害のせいだと指摘され、涙が止まらなくなりました。 私にはきょうだいがいますが、障害を持っているのは私だけです。親も親戚も、誰も障害を持っていません。 それなのに、私だけが障害を持っていて、そのせいで周りからの評価に苦しめられ、結果うつ病にまでなってしまいました。 なぜ、私だけがこんなに苦しい思いをしないといけないのでしょうか。周りを見れば、「普通の人間」で「普通に仕事が出来る」人ばかりで、なぜ私はそちら側の人間にならなかったのかと、日々悔やんでも悔やみきれません。 父や母は「発達障害に産んだつもりなどない」と私の病気を否定し、誰も私の辛さと向き合ってくれません。きょうだいも、私が病気や障害のことを打ち明けた途端距離を置くようになりました。 私は発達障害者になりたくてなった訳ではありません。うつ病にだって、なりたくてなった訳じゃない。 周りは理解してくれないし、薬も合わなくて廃人のようになる日も少なくなく、休んだ後に職場に行けば周りからの目は白い。 こんな状態で生きていけません。 私は何のために生まれたのでしょうか。 今まで何が楽しくて、何に生きがいを感じていたのか、もう分からなくなってしまいました。 今は奨学金を返さないと死ねないと思って何とか死なずにいますが、昨日もやっぱり辛くて首を吊ろうとしてしまいました。 こんな質問してごめんなさい。 でも、もう私も何をどうして生きれば良いのか分からなくなってしまいました。

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何かを機に、自分をたまに見失います

こんばんは。 いつもお世話になっております。 高校3年生の頃から考えることはありましたが、最近になって再び、生きる意味を考えることが増えました。昨年に新しい環境、新しい暮らしが始まり、有難いことに友達もできました。最初は、友達ができたことに嬉しく、心の拠り所になっていました。ですが、時間が経つにつれ、価値観の違いがあったり、相手の良くない態度で、自分で自分を苦しめることが増えました。なんでそう思えるのか、私が何か気に触ることをしたのかな、と些細なことを無駄に考える時間を費やし、疲れ果てました。ですが、いざその子がいなくなると、寂しい部分もあって、今思えば、依存していたのかもしれません。4月からまた再び、新しい年が始まりましたが、彼女と話すことが一段と減りました。前回と同様、依存だと分かっていても寂しさがあります。他の友達といると少し羨ましがったり...でも、頭のどこかでは、もしかしたら、離れる縁なのかもしれない、離れていっても追いかけることないんじゃないか、無理にまた自分が楽しい時間と辛い時間のギャップを受けて、自分を苦しめるのではなく、自然に身を任せてもいいんじゃないかって考えがあります。 いい縁は例え別れてもいつか再開して戻ってくるはずって思ってしまいます。今繋がっている縁を大事にしながら、自分から離れていった縁は追いかけずそのままに。 また、もうひとつ考えることがあって、心の底から幸せだと思える瞬間を、一生を共にする相手と迎えたいなとより思うようになりました。胸が苦しいときは尚更、私には、辛い時、嬉しい時を共有できる伴侶が出来るのか、と思うようになり、以前より鮮明に伴侶は誰か分からないけれど、その伴侶といるときの自分の姿が浮かんでくるようにもなりました。この浮かんだ姿は、将来の本当の姿なのかなと思ってしまいます。 何を機にこれらの考えになったのかが、分かりませんが、私、ちゃんと生きられているのでしょうか。この今の自分が、自分ではないみたいで、たまに分からなくなります。本当の幸せ、掴むことができるのでしょうか。今でも幸せは感じています。でも、これは自分にとって、本当に幸せなのかなって思うことがあります。ご回答をいただけたら、嬉しいです。

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昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

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ADHDの私は社会でやっていけるのか

私は3年ほど前から心身の不調により心療内科に通っています。主な症状は鬱や過眠で、大学の授業にもあまり出席できず、通院状況を大学側に伝え、学生支援室から配慮を受けながら通学しています。はじめは睡眠障害と診断されていたのですが、昨年主治医からADHDと診断され、過眠によって朝に起きられないのもその特性によるものではないかと伝えられました。確かに私はADHDの特性としてあげられる不注意が多く、スケジュール管理や部屋の片付けが苦手で生活が乱れることが多いです。ただ、勉強はむしろ得意な方なので大学で実家を離れて一人暮らしを始めるまでその症状が可視化されなかったのかもしれません。 診断を受けてから今までの生活を見直し、同じ症状に悩む方々のライフハックを参考にしたり、自分なりに苦手なタスクを自動化する方法を考えたり工夫はしていますが、今年で大学4年生になるため、大学の学生支援室の方からも厳しいコメントを頂くようになりました。 周りの子達が就活を進める中で、あなたは社会でどうやっていくのか。朝起きられない、スケジュール管理ができないといったことは社会では通用しないが、卒業後あなたはどうするつもりなのか。といったコメントを度々貰うようになり、分かっていてもそういった言葉を聞く度に生きているのが嫌になってしまいます。社会から見れば自分が甘えた人間であることは言われなくても分かっています。社会に出たらどうするのと聞かれても、これが私の精一杯でどうすることもできないというのが答えです。 私は今大学院への進学を考えていますが、進学してもいずれ社会に出る日は来ます。その日が来るのが怖くて自分で選んだ院への進学という道さえ就職から逃げた結果のように思えてきます。大学もまともに通えない人間が社会でやっていけるのでしょうか。社会でやっていけない人間が生きる意味はあるんでしょうか。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ