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清めの塩

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先日同居の彼がお通夜に参列して帰宅してきた時に塩持ってこいと言いました
最初訳も分からずポカンとしてたら、清めの塩やったこと無いのか?と呆れられてしまいました
(いくら私が寺の孫でも宗派違えばやるやらないがあるのに…)
大人になるまで清めの塩も見たことなく、その他の作法も知らないのは私がおかしいんでしょうか?(故人を蔑むみたいで、清め塩とかやるのは正直嫌なんですが…)


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

浄土真宗では清め塩は不要ですから、

見たことがないのも無理ありません。

それまで他の宗派のお葬式に縁が無ければ
清め塩の作法を知らないのも仕方ありません。
全くおかしくはありませんよ。

そういう事情も彼氏に説明してみては?

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

ちなみに引き出物についてくるお塩は食べられません

こんにちは。それにしても高圧的な態度の彼氏ですね。びっくりしました。

 清めの塩という考えは、仏教にはありませんので、仏教であればどこの宗派においても不要かと思います。私もしたことがないので作法を知りません。
 ただ、神道の考えなどにより、仏教徒であっても帰宅時に玄関にて塩をかける習俗があると思います。
 お葬式の引き出物に塩が付いていますが、仏教の思想と関係がないということで、これを花の種などにしようというお宅もあるようです。ちなみに葬儀の引き出物についている塩は食用ではないので食べられません。ゆで卵を食べるのにちょうど良さそうな分量なのにもったいないです。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

本当は浄不浄という考えは仏教ではない

別に死者はけがれていません。
日本人の何となく心理的浄化効果のお儀式としてライト感覚で塩を用いることが葬儀社でもありますが、つまり宗教性や真意がいかに浸透していないかっていうことですよね。
観念的なけがれというものはアタマの上で考えたけがれなので、本当は汚れてはいません。
ですが、それでもどうしても不安になる人がいるのでしょうから、そういう人に向けてのものということでしょう。
知らずにそういうものだと思っている人も多いですから、これが正しいんだよ、というとケンカになったりする場合もありますので、上手にスルーなさってください。笑

本当は塩とはちゃんとした本物の塩で生気を養うためのものです。
食卓塩や食べられない塩では本当のお清めにはならんでしょうね。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難いお言葉ありがとうございます
門徒物知らずって影で言われそうな育ち方だったからかや清め塩や六曜に拘る事など見慣れぬものばかりで不安だったので少し安心しました

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