仏は「やさしさ」について何か/何を語られていますか
私の世界には、まだやさしさがあるから、やさしい人たちがいるから、それを受け止める力がまだあるから、まだ生きていたい。すべての人にではないにしろ、私にはまだやさしく生きる力が、やさしくできる力がかろうじて残っているから、まだ生きている意味はある。
そんなように、生きる意味を考えることがあります。
ただ、やさしさには、厳しさや面倒ごとからの逃避としての、悪い結果をもたらすやさしさもあるような気がし、また、思いやりや、相手の立場になって考える力、という表現も、やさしさ、ということの一側面しか表していないような気がします。
自分のやさしさを自省し、他人のやさしさを信じ続けること、直接的・間接的につながるやさしさの循環の中に生きようとすること、それが良く生きるということなのかな、とも思いますが、しかし肝心の「やさしさ」とは何かについて、考えるほどに、答えが拡散していきます。
「やさしさ」ということについて、仏は何か語られているでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私はただ書きたい回答を書きました。さぁ、どうする?
仏教とは、智慧と慈悲の生き方です。そんな仏教には八万四千通りの生き方があるとも言われます。それだけ人生とか優しさというものは、一筋縄ではいかない複雑で多彩なものだという例えでしょうね。
このご質問にもきっと八万四千くらいたくさんの回答の切り口があろうかと思います。そんな中で、パッと私が書かせていただきたいと頭に浮かんだのは、『相手に目を付けない優しさ』です。
例えば托鉢。托鉢では、「施した物やお金を受け取った人がどう使うか」という結果に目を付けません。施す側は施す側の善意で完結します。
逆に、受け取る人も目を伏せたり笠で視線をさえぎって、施した人と目を合わせません。「どのような人がどのように施したか」に目を付けないのです。受け取る側は受け取る側の善意で完結します。
非常識に感じられるかもしれません。でも、今の日本に欠けているものはコレです。
例えば電車で席を譲りました。「私を年寄り扱いした!悲しい!怒ったぞ!!!」となります。何故でしょうか?答えは簡単。善意を受け取るのが下手くそだから。席を施した人を勘ぐり、「レッテルを貼られた」というレッテルを貼り、善意を善意ではない悪いものにすり替えてしまう……日本中で、一事が万事でこんなことばっかりやってるから、クレームだらけ、マイルールだらけの窮屈な社会になってしまったのです。
施す人が偉くて施される人が弱者なのではなく、施す人は施させていただくという優しさで完結。受ける人は受け取らせていただくという優しさで完結。おのおのが、おのおのの優しさをまっとうできれば世界はきっと生きやすくなるでしょう。
変に話を大きくしないことです。
まず小難しいことを考えるのは止めて、他者の行いに感謝と敬意を持って受け取るということをやってみましょう。他者というのは人に限りません。陽の光も、水の一杯も、鳥の声も、ご飯の一膳も、もちろん人々の営みも……。
相手のことはどうでもいいんです。ただ感謝と敬意を起こしているその瞬間、その心は、生きやすい穏やかな心でしかないのです。そういうことを積み重ねると、頭ではなく感性が自然と優しさの循環の味をしめてくれるでしょう。
慈悲の実践の言葉
スマナサーラ長老が、釈尊のお経(パーリ語の初期仏教経典)の中の慈悲の言葉の部分を日本語にしています。お聞きになったことがあるでしょうか。
私は……
私の親しい生命が……
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
私の嫌いな生命が……
私を嫌っている生命が……
生きとし生けるものが幸せでありますように
というセットになっています。これが、あいまいではない完ぺきな「やさしさ」だと思います。
問題は、自分が、この「やさしさ」をどのくらい強く持てるかどうかです。本来は利己的な生命がこの気持ちを持つためには、この言葉を唱えたり心の中でしっかり念じることが大事です。
宗教法人日本テーラワーダ仏教協会のホームぺージで見ることができます。