「禅とは何か」という問いかけ
今から書くことは、特に深い悩み事ではなく、もし気が向いたらお付き合い頂けると幸いです。
沢木耕太郎の『深夜特急』を、割と最近読み終わりました。
この話は、1970年代に当時26歳の青年沢木耕太郎が香港からロンドンまでをバックパッカーとして旅するノンフィクションです。何度も読み返していますが、読む度に新しい発見のある、面白い本です。
その中で、また一つ発見がありました。
確か4巻の中盤あたり、沢木は西洋人に「禅とは何か?」と尋ねられます。さあ、困った青年沢木。色々知識を披露しますが、相手は納得してくれません。彼が知りたいのは禅の本質なのでしょう。
最終的に沢木がひねり出した答えは、”Being on the road”でした。相手は「ほぅ」と感心したようです。
「あ、何かカッコいい答え方」と、私も思いました。
ところが。ネット上では批判もあるようです…。
なので、自分ならどう答えるか少し試してみることにしました。
禅とは鎌倉時代に興った鎌倉仏教の一つ。曹洞宗と臨済宗があり、当時身分の低かった武士たちに向けて分かりやすくしたもの。建物はシンプルで武士好み。仏像は写実的で武士好み。阿吽の像は筋肉ムキムキ。
あと何だろう、朝早くから坐禅をして、ウトウトし始める不心得者がいると、後ろから木の棒でポカリとやられるのを、ドラマかマンガで見たような…。
ダメです。本質に迫るどころか周縁をくるくる回って終わってしまいました。しかもあやふやな知識で。
因みにWikipediaも見ましたが、あの日本語は私には解読不能でした。増して外国の人に噛み砕いて説明するなんて絶望的です。
そこで、専門家の人だったらどんな風に答えるのだろうと興味を持ちました。
外国人だけでなく、私のようなあまり知識のない人に「禅って何ですか?」と聞かれたら、何と答えますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
はじめに言葉ありきではなく はじめに「事実」ありき
言葉は遅いんです。
言葉の世界に行くでしょう。
言葉をツールとした世界へ向かうでしょう。
言葉をツールとして脳内で現実離れしたことを相手にするでしょう。
だからカッコいい言葉で言いたくなる。
そっちに用はない。
まず人間は何も知らずに今日も目が覚めて、何も知らんままに全自動の受容体で生活している。
この自分というスクリーンに見るもの聴こえるもの思うことの一切が映し出される。
そこに「おてつき」しないままの世界がある。
雪道に誰も人が踏み込んでいないような最高の芸術作品をも上回る素晴らしい響きがあなたの身心というスクリーン上にいつでも映し出されている。
そこが仏の世界で悟りの世界なのです。
人間の見解、人知の踏み込みの行なわれていない世界。
だから思考よりも感受に用がある。
だから禅僧も釈尊も坐禅をする。
その当時には坐禅などという言葉すらなかった。
禅などというのも禅臭い。
たった今、こここの場所で、今行われていることが、わが身というディスプレイ・スクリーンに映し出されている。
あっちのこと、向こうの事であるかのように思われているが、それはこの自己の身心という画面上、鏡に映し出されている「こちらの」こと。
どういうわけか人間は「ここ」をみずに思考をツールにして他所へむかう。
それがすでに神や仏や悟り、本有の涅槃を見失う瞬間である。
過去においてどんなに嫌いだった人間を今から見るとしても、そこには目玉にその人が映し出されるだけ。私の好き嫌いの条件付けの入る前に、ただこの身にその人間が感知されるだけ。
試しに周りのものを見てください。
名前すら起動しないままにわが身に映し出されているのではないですか?
じぶんとか相手とかものとか、こちらアチラという隔てもないまま、同時にそれがこの身に現ずる。
すべてのものは無垢清浄のままこの身に来たって、人間の見解という添え物や混ざりものなしに透過している。
この事実を良く見つめていけば禅などという言葉もいらない程に禅の内容が明らかになる。
あらゆる禅語も仏教語も経典も、みなこの自己と物事との❝人我なしの❞かかわりにおいて生まれたのです。
今この身が体感していることは「どうなっているか」。
思考をツールとしないで感受している中で「その通りに」「そのように」現れ来たっている姿を「そのままに」ダイレクトに受け取っている所がある。
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質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
正直に感想を言うと…すみません、難しいです(泣)
結構3回くらい読み返して、「あるがまま」「肚で感じる」という事なのかなと思いました。
NIKEアプリでヨガをすると「呼吸に意識を集中します」とか「身体の重さを感じます」なんていう指示が出るのですが、きっとそんな感覚…?
現代は「指一本」で世界中の出来事を検索でき、意見を述べ、言葉と思考が万能な時代となっています。
しかしそれを使う人類は実はそんなに賢くなく、「指一本」でインパクトのある意見に付和雷同し、自分を優位に立たせるために粗探しの材料を検索する…という事も珍しくないようです。
(恐らく作家の作品を貶している方も、「自分ならどう答えるか」と理解を試みた訳ではない)
そんな世情に、ちょっと疲れを感じていたところです。恐らくこの「疲れた」という感覚が、私の「ここ」なのだろうと思いました。