私の生きる価値(老醜)
「年老いた親の姿は、自分の将来の姿」
某年某月某日、読売新聞の「人生案内」欄で、ある回答者が、こう書いていました。
そうであるならば、もはや私に生きる価値はありません。両親の最期も看取り、さらにその思いは強まりました。
先日、スウェーデンの元パラリンピック選手が、安楽死を選択したというニュースが、流れました。私は、考えさせられました。
11月8日の亡き父、同9日の亡き母の誕生日を前に、墓参りに行きました。お墓に問いかけましたが、答えが得られるわけがないですよね。
「定命」という言葉があります。老醜を晒すのが確実で、生きる価値がないとわかっていても、自ら死期を早めることなく、定命に従うのが筋なのでしょうか?
このhasunohaを、小学館集英社プロダクション発行の本で、知りました。(登録は2019年) かつては、列車で、各地(北海道を除く)を巡りました。 よろしくお願いいたします。
「安楽死所望」の一方で、心のどこかに「死」に対する恐怖心がある。 加齢とともに、親の二の舞を演じる場面が増え、無力感が募る。 受容できない自分を受容できない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きる価値は、自分で見出すものです。
「年老いた親の姿は、自分の将来の姿」かもしれませんが、全く別の自分も存在するとも言えます。
たしかに、外見的には、歳を重ねるごとに、体力は落ち、腰は曲がり、歯も抜け、頭髪も無くなり、内臓も弱り、どんどんと醜くなっていく。これは自然の法則で避けようがありません。お釈迦様でも生老病死は避けられないと諭されていますので仕方ありません。しかし、あくまで何もケア(お手入れ、健康診断、運動等)しなければそうなるでしょう。ということで、そのような外見的なことをまず語ったことかと思います。
しかし、もちろん、それだけではありません。心の面もとなれば、さらに多くのことが言えるでしょう。そして、自分が親にしてきたこと(親孝行も含め)どうであったが、今度自分が子からそうされるという意味もあるでしょう。ともあれ、すでにご両親は亡くなられたのですから、心からのご供養をしっかりと営んで頂き、嫌だった面は、そうならないように努力するしかありません。
私も、父の同じように頭の禿げ具合が似てきましたが、これはどうしょうもありません。
又、合わせて死ということに対しても、ご両親の生死観と違うと思います。乗り鉄さんも、改めて人間の死、身内の死を経験され、様々なことを考えたと思います。これからの人生の中に、「死」とはテーマとして学んでいかれたらどうでしょうか。
人の寿命は、神様が決めるものでもありません。自らこうして生きていこうと決めてきたのでしょうから、せっかく生きている間は、楽しく生きればいいのです。生きる価値がないと決めつければそうなりますが、まだまだ人生は長いです。
どうせ生きるなら、苦しく生きるより楽しく生きた方がいいに決まってます。
まずは、家の中に閉じ籠らず、外へ出かけましょう。
人生これからです。
質問者からのお礼
回答を頂き、ありがとうございます。
来年、「母の十三回忌」と「父の三回忌」を控えています。とりあえず、そちらを無事に済ませることに、注力します。
その後、改めてじっくり考えます。
ありがとうございました。